人形と動物の文学論

人形表象による内面表現を切り口に、新しい文学論の構築を目指す。研究と日常、わんことの生活、そしてブックレビュー。

香川県の教育はヘン?

2013-05-12 20:39:44 | 国語教育と文学
 
のすけちゃん。

 なんだか久々の(ような気がする)ブログ更新。
 今日は長年抱いてきた、教育への違和感を書いてみます。

 私ずっと、子どもの頃は白髪があったし(いまはほとんどないと思う)、生きたくなかったし、大人になりたくなかったし、随分後ろ向きでした。学校をすごく窮屈に感じてた。なんで生きたくなかったかというと、学校では、生きていることは素晴らしいという価値観をおしつけてくる、というのもひとつだったと思うんだけど。そのくせ多様性なんて欠片も認めない偏見の塊で。

 大学に入ってから、しばらく忘れてたんですが、働くようになって、やっぱり息苦しさを感じるようになりました。
 ただ、ちょっと疑問に感じたのが、香川県人の気質の問題もあるかなあ、と(次の仕事は、変わった子どもたち対象だし、わりとふわふわした感じなので、大丈夫…だといいなと思ってます)。名古屋でいたときは、この種の息苦しさは感じなかったので。

 説明しますね。香川県人の気質って、わりと勤勉だし、けちで、業績主義なんですね。たぶん、貧しいけど、近畿からは近いし、おおきな災害などがなくて、地道に生きてれば小金持ちくらいにはなることができる土地柄だ、ということが影響してるんでしょう。勉強するのも、成績が良くなるとか、よい仕事にありつけるとかじゃないと、しないわけ。だから、いまみたいに学歴と仕事との関係が崩れてしまうと、とたんに統一学力テストの結果が下がったりする。
 教育もだから、論理的な思考を身につけるとか、よりよく生きるため、自由になるため、というような発想は全くなく、ただ成績が良くなること、あるいは「いい子」になることを目的にしている感じでした。

 「こういうことを考えるのは子どもらしくない」という制約がたくさんあって、自由にものを考えられない環境。勉強しても頭が良くなることを禁じられている感じでした。高校時代の私はさして頭良かったとは思わないけど、手当たりしだいでばらばらな感じでしたけど、そういう教育だったので、統一的な思考を持つことが出来なかった。エネルギーありあまった子どもが暴れるのと、たぶん現象としては同じなんだろうな。私は体が動かない方だったので、体の動きを制限されるのは何とも思わなかったけど、思考を制限されるのはストレスでした。おかげで、大学入ってから、一から人格形成やり直さないといけなかったし(随分落ち着きましたが)。

 エリート教育がないんですよね。優等生教育だけで。大学、大学院と県外でいたので思うのですが、旧制高校だったところはふつうもう少し自由だよ、と。
 ときどき、社会学者の本田由紀さんが、受験生時代にいっぱい勉強して、勉強すればよい仕事につけると思ってたけど、そうじゃなかった、そのショックが研究するきっかけだった、というようなことを言ってますが、彼女、香川県の出身。彼女が通ってたのは、私が通ってたところよりもっと上の、県庁所在地にある県下で一番の進学校。そこでもそんなに、ガリ勉な感じなんだなあ、と。
 優等生的な雰囲気は、二番手の高校とかに多いよね、と言われたことがありますが、香川県という地域自体が、二番手気質なのかも…、と思います。

 私の専門は日本文学なので、塾講などでは国語を教えることが多いのですが、国語はとりわけ道徳教育的な傾向が強くて厳しいです。女の人は男の人を愛して、子ども産んで、母性愛を持つものだ、という価値観を暗に前提としている。これがもう…、息が出来ない。

 で、とりたてて結論めいたものもないのですが。


ろこちゃん。早くご飯がほしいのでお茶碗かじってます。
 

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