こんにちは。
先日のKUNILABOイベント「佐藤亜紀さんと、歴史×文学で歴史小説について考える」にご参加くださったみなさま、ありがとうございます。
当日は定員いっぱいの90名のご参加があり、おかげさまでたいへん盛況でした。
西原は引き続き4月期もKUNILABOで「『源氏物語』を読む」の講師をいたしますので、どうぞよろしくお願い致します。
(詳細、お申込みはこちら)。
さて、少し時間が経ってしまいましたが、2021年のお正月に放送されていた、『逃げるは恥だが役に立つ』の新春スペシャルについて、
いくつか思ったことがありましたので、書いておきます。
最初に思ったのは、ああ、みくりちゃんって本当に「普通」の子なんだなあ、ということ。
ふつうに就職して結婚して出産して、という、マジョリティな存在。
考えてみれば、キャッチコピーも「普通のアップデート」だったので、まあ「普通」ですよね。
ただそれが本編のほうではまだ、就職活動に失敗して、派遣先でも派遣切りにあって、ということで、
就職がうまくいかない人たちには共感を呼んでいたのだと思いますが、
新春スペシャルのほうではどうやら正社員として働いているので、完全な「勝ち組」マジョリティ。
確かにみくりちゃんいろいろ有能そうだし、価値観も今の会社などで重宝されそうな感じだし、
マッチングさえうまくいけば就職できないはずないんですよね。
本編のほうでも、ちょうど私が見たのが授業の都合があって2019年度の、研究所広報をやっていた時で、
ああ自分のやってる仕事は、みくりちゃんみたいな人が必要とされてるんだな、
それに引き換え自分は全然向いてない、と思いながら見たので惨めな気持ちになりましたが…。
今回はみくりちゃん、お仕事にも困ってないから、完全に自分とは違う世界の人間のお話だな、という感じでした。
そして主人公たちは勝ち組マジョリティだけど、
周辺の人たちの描き方で、ちょっとマイノリティに配慮しているところを見せることで、
バランスをとっているんだと思います。
とは言え、百合ちゃんの、高校時代同級生だった「花村」に対する、
「それがどんな好きにしろ、好きになってくれてありがとう」というセリフは、
やはりどうもかなりずるいし中途半端な感じがしました。
私自身の立場としては、そういう曖昧な感じが一番良いとは思っています。
近代社会においてセクシュアリティはあまりにも大きな意味を持ち過ぎです。
でも、同級生の「花村」にとっては、それが「どんな好き」かが、
決定的に大事で、曖昧にすることなんてとてもできなかった。
だからもう何十年も経っていて、今はもう一緒に暮らすパートナーもいるのに、
百合ちゃんに、「好きだった」と告白するわけです。
それが自分のセクシュアリティを、初めて自覚したときだったから。
それを「どんな好きでもいい」というのは、どんな好きでも受け入れると言えば聞こえは良いけれども、
自分だけ安全な場所で物を言っているという感じが、どうしてもしてしまいます。
百合ちゃんだって男性と付き合ったのは、50歳くらいになっての1度だけ、
それも「頑張れなかった」とか言ってすぐ別れてしまっているのに、
どうして自分はマジョリティの異性愛者だと信じて、少しも揺るがず物を言えるのか。
「どんな好きでもいい」のなかに、
ほんの少しでも、自分は異性愛者ではないのかも、
相手が異性であれ同性であれ、どんな好きなのか、
曖昧にしておきたい人間なのだ、というようなためらいがあればまだよいのですけども。
もうひとつ、百合ちゃんの子宮体癌の話が、あまりにも早く終わってしまうのも、
中途半端な印象を与えてしまう原因だと思います。
百合ちゃんの子宮体癌は、手術のときに
みくりちゃんがつわりがひどい時期でつき添えない、
という設定からも、みくりの妊娠と対比されていることが分かります。
妊娠と子宮体癌は、どちらも子宮のなかに異物が宿って、
ほうっておけばその異物はどんどん大きくなるものです。
子宮体癌は放っておけば宿主の生命を危うくしますし、
妊娠の場合は順調にいけば出産によって自然に体外に排出されるけれども、
そうは言っても未だに健康な若い女性が死ぬこともあるものです。
でもみくりが出産するよりだいぶ前に、百合ちゃんの手術は無事終わってしまうんですよね。
そしてみくりの妊娠・出産においては、
つわりがひどいとか、出産後の子育てに対する不安は描かれているものの、
妊娠・出産そのものへの恐怖はないのかな、というのが疑問でした。
妊娠が分かったときも、
みくりは「平匡さんはそもそもうれしくないのかな?」とか不安に思っていて、
妊婦はひたすら嬉しくて、男の反応が何かよく分からない、
みたいな妊婦表象って、すごく不思議です。
生命を危険にさらすのは妊婦の側なのに…。
先日のKUNILABOイベント「佐藤亜紀さんと、歴史×文学で歴史小説について考える」にご参加くださったみなさま、ありがとうございます。
当日は定員いっぱいの90名のご参加があり、おかげさまでたいへん盛況でした。
西原は引き続き4月期もKUNILABOで「『源氏物語』を読む」の講師をいたしますので、どうぞよろしくお願い致します。
(詳細、お申込みはこちら)。
さて、少し時間が経ってしまいましたが、2021年のお正月に放送されていた、『逃げるは恥だが役に立つ』の新春スペシャルについて、
いくつか思ったことがありましたので、書いておきます。
最初に思ったのは、ああ、みくりちゃんって本当に「普通」の子なんだなあ、ということ。
ふつうに就職して結婚して出産して、という、マジョリティな存在。
考えてみれば、キャッチコピーも「普通のアップデート」だったので、まあ「普通」ですよね。
ただそれが本編のほうではまだ、就職活動に失敗して、派遣先でも派遣切りにあって、ということで、
就職がうまくいかない人たちには共感を呼んでいたのだと思いますが、
新春スペシャルのほうではどうやら正社員として働いているので、完全な「勝ち組」マジョリティ。
確かにみくりちゃんいろいろ有能そうだし、価値観も今の会社などで重宝されそうな感じだし、
マッチングさえうまくいけば就職できないはずないんですよね。
本編のほうでも、ちょうど私が見たのが授業の都合があって2019年度の、研究所広報をやっていた時で、
ああ自分のやってる仕事は、みくりちゃんみたいな人が必要とされてるんだな、
それに引き換え自分は全然向いてない、と思いながら見たので惨めな気持ちになりましたが…。
今回はみくりちゃん、お仕事にも困ってないから、完全に自分とは違う世界の人間のお話だな、という感じでした。
そして主人公たちは勝ち組マジョリティだけど、
周辺の人たちの描き方で、ちょっとマイノリティに配慮しているところを見せることで、
バランスをとっているんだと思います。
とは言え、百合ちゃんの、高校時代同級生だった「花村」に対する、
「それがどんな好きにしろ、好きになってくれてありがとう」というセリフは、
やはりどうもかなりずるいし中途半端な感じがしました。
私自身の立場としては、そういう曖昧な感じが一番良いとは思っています。
近代社会においてセクシュアリティはあまりにも大きな意味を持ち過ぎです。
でも、同級生の「花村」にとっては、それが「どんな好き」かが、
決定的に大事で、曖昧にすることなんてとてもできなかった。
だからもう何十年も経っていて、今はもう一緒に暮らすパートナーもいるのに、
百合ちゃんに、「好きだった」と告白するわけです。
それが自分のセクシュアリティを、初めて自覚したときだったから。
それを「どんな好きでもいい」というのは、どんな好きでも受け入れると言えば聞こえは良いけれども、
自分だけ安全な場所で物を言っているという感じが、どうしてもしてしまいます。
百合ちゃんだって男性と付き合ったのは、50歳くらいになっての1度だけ、
それも「頑張れなかった」とか言ってすぐ別れてしまっているのに、
どうして自分はマジョリティの異性愛者だと信じて、少しも揺るがず物を言えるのか。
「どんな好きでもいい」のなかに、
ほんの少しでも、自分は異性愛者ではないのかも、
相手が異性であれ同性であれ、どんな好きなのか、
曖昧にしておきたい人間なのだ、というようなためらいがあればまだよいのですけども。
もうひとつ、百合ちゃんの子宮体癌の話が、あまりにも早く終わってしまうのも、
中途半端な印象を与えてしまう原因だと思います。
百合ちゃんの子宮体癌は、手術のときに
みくりちゃんがつわりがひどい時期でつき添えない、
という設定からも、みくりの妊娠と対比されていることが分かります。
妊娠と子宮体癌は、どちらも子宮のなかに異物が宿って、
ほうっておけばその異物はどんどん大きくなるものです。
子宮体癌は放っておけば宿主の生命を危うくしますし、
妊娠の場合は順調にいけば出産によって自然に体外に排出されるけれども、
そうは言っても未だに健康な若い女性が死ぬこともあるものです。
でもみくりが出産するよりだいぶ前に、百合ちゃんの手術は無事終わってしまうんですよね。
そしてみくりの妊娠・出産においては、
つわりがひどいとか、出産後の子育てに対する不安は描かれているものの、
妊娠・出産そのものへの恐怖はないのかな、というのが疑問でした。
妊娠が分かったときも、
みくりは「平匡さんはそもそもうれしくないのかな?」とか不安に思っていて、
妊婦はひたすら嬉しくて、男の反応が何かよく分からない、
みたいな妊婦表象って、すごく不思議です。
生命を危険にさらすのは妊婦の側なのに…。