わが恋はむなしき空に満ちぬらし思ひやれども行く方もなし(古今集)
アニメ『風立ちぬ』の主人公、二郎はいつも帽子をかぶっている。白い服を着て、白い帽子を。
風にあおられて帽子が舞い上がり、少女が手を伸ばす。帽子には二郎の夢がいっぱいに詰まっている。
あらすじは主人公が飛行機を飛ばすまでを描く、ごく単純なもの。実在の技術者堀越二郎をモデルに、堀辰雄の小説『風立ちぬ』の物語をからめた。
主要な登場人物は、ヒロイン菜穂子、妹かよ、夢に出てくるイタリアの飛行機設計家・カプローニ、同期の本庄に上司の黒川、服部。休暇中に出会った、謎のドイツ人カストルプ(!)も登場場面は短いながら、重要な役回りだ。
場面は少年時代、学生時代に起こった関東大震災とその二年後、就職した後の飛行機開発とドイツ留学、テスト飛行の失敗と休暇での菜穂子との恋、結婚生活、開発した飛行機の成功に、主に分けられる。エピローグ的に、敗戦後の焼け跡とゼロ戦の残骸、カプローニの夢と、夢に出てきて別れを告げる菜穂子(と白いパラソル)が描かれる。
休暇から戻る汽車。汽車の煙は黒々と描かれ、デッキで佇む一人の乗客から、煙草の煙が上がる。その側で、二郎は座り込み、本に夢中になっている。二郎の帽子を、風が巻き上げ、隣のデッキで身を乗り出していた少女が手を伸ばし、つかむ。帽子をつかむためにデッキから落ちそうになった少女の身体を、二郎がつかまえる。
物語は、風に舞い上がる帽子→パラソル→紙飛行機(→再び帽子)をつかまえる動きで構成される。それが二郎と菜穂子とのあいだでやりとりされ、最後に飛行機になって飛んでゆく。菜穂子は死に、飛んでいったものは再び戻ることがない。
帽子のお礼を言った二郎に対し、ヴァレリーの詩を引用する少女。"Le vent se lève"(風立ちぬ) 返す二郎"il faut tenter de vivre"(いざ生きめやも)。
ほどなく地震が起こり、汽車がとまる。
ヴァレリーの風は魂の表象なのだろうし、空や煙、雲と関わってイメージの連鎖をかたちづくる。日本古典文学においても、煙は火葬の煙を象徴し、空が魂の立ち上る先であることは共通する。息は魂魄における魂。
(ちなみに冒頭に引用した和歌は、火葬の煙は関係ありません)
だから煙草の煙は、人の思い(思ひ/火)の象徴であり、予め行われた喪の儀式であり、空に立ち上る魂を意味する。飛行機は、こちら側からあちら側の世界へと向けて、旅立つもの。
関東大震災の場面は、地面の轟きや火災、逃げ惑う人々などがかなりはっきりと描かれる。密集する建物と群衆の動き。燃え広がる炎と、黒々とした煙。燃え上がる講堂や舞い落ちる火の粉から本を救おうとする描写は、図書館好きとしてはかなりツボだ。
山積みの本の間から、ひらりと舞い上がる紙切れは、どうやらカプローニからの手紙らしい。
飛行機が飛んだあとに起こったはずの戦争も、空襲も描かれず、エピローグ的な部分の後景としてしか描かれないのに比べ、震災はかなり特権的な位置を与えられる。たぶんこれがすべての炎の始発なのだろう。
次に風で飛ばされる何かをつかまえる動きが描写されるのは、軽井沢での休暇中の場面だ。この場面で、震災時に出会った少女、菜穂子と再会する。
丘の上で絵を描いていた菜穂子のパラソルが風に舞い上がり、下の道を通っていた二郎の目の前に飛んでくる。二郎は必死でそれをつかまえる。このパラソルは再会の場面、急に降りだした雨を凌ぐために使われる。
作品中で雨が描かれるのもここだけであり、雨の後に出た虹も、唯一の描写だ。「虹のことなんか、忘れていたな」と二郎は言うが、虹は二度と思い出されることがない。再会の場面で、菜穂子は泉に満願のお礼を言い、涙ぐむ。だから雨は、菜穂子の涙を象徴するのだろう。
水の描写は、これ以外では、関東大震災中に、菜穂子と、骨折したお絹(菜穂子に同行していた大人の女性。当初、二郎はお絹のほうに惹かれていたようにみえる)を背負って菜穂子の家に向かう途次、どこかの境内で休む主人公が、シャツに井戸水を含ませてお絹、菜穂子に与えた場面くらいしかない。これも同じく震災の場面で、井戸水の順番を待ち、顔を洗う二郎と(+水上タイプの飛行機の湖面or海面。夢に出てくるカプローニの飛行機は、水上タイプが多かったような)。燃え上がる炎を消す水は、あまりにも少ない。
体調を悪化させた菜穂子の病室に向かって、二郎は紙飛行機を飛ばす。屋根に引っかかった紙飛行機を必死で取ろうとする二郎。二郎が足を滑らせ、菜穂子が窓を開け、気づいたとき、風が起こり、紙飛行機は飛ぶ。菜穂子は紙飛行機をつかむ。
二人の間でやりとりされる紙飛行機。菜穂子の帽子が風に飛ばされ、二郎がつかまえる。ようやく、菜穂子の夢を受け止めた二郎。
ここから、菜穂子との婚約と、結婚、結核の悪化によって立ち去る場面、飛行機が飛ぶ場面まではほとんど一足飛びの印象だ。 テスト飛行の場面、飛び立つ飛行機を眺める二郎は、喜びもなく、何か放心している。それがついに二郎のものではなくなったこと、向こうの世界に飛び立ってしまったことを知っているからだろう。冒頭の落下の夢に暗示されるように、二郎は飛ぶことができない。地を這うことしかできない。だから飛び立つ飛行機を自分のものにすることはできないし、菜穂子がついにあちら側に行ってしまったら、手に入れることができない。
二郎は「美しい飛行機」をつくりたいという。けれども飛行機である以上、飛ばなければならない。飛んでいってしまうものは手に入れられない。だから本当は、飛ばない飛行機をつくらなければならなかったのだろう。
物語の終わり、カプローニの登場する夢は、やや蛇足的な印象だ。空襲の煙とゼロ戦の残骸を背景にエンドロールでも良かったと思うのだが、一切無駄のないこの映画、カプローニの夢にも一応意味がある。冒頭で少年時代の二郎が、カプローニについて書かれた一冊の本を手渡されるから。一冊の本は夢になり、手紙となり、関東大震災の炎から救い出され、風にのって舞い上がる。その意味で『風立ちぬ』は、一冊の書物によって枠どられた物語でもある。
おまけ。私の子どもののすけちゃん。
アニメ『風立ちぬ』の主人公、二郎はいつも帽子をかぶっている。白い服を着て、白い帽子を。
風にあおられて帽子が舞い上がり、少女が手を伸ばす。帽子には二郎の夢がいっぱいに詰まっている。
あらすじは主人公が飛行機を飛ばすまでを描く、ごく単純なもの。実在の技術者堀越二郎をモデルに、堀辰雄の小説『風立ちぬ』の物語をからめた。
主要な登場人物は、ヒロイン菜穂子、妹かよ、夢に出てくるイタリアの飛行機設計家・カプローニ、同期の本庄に上司の黒川、服部。休暇中に出会った、謎のドイツ人カストルプ(!)も登場場面は短いながら、重要な役回りだ。
場面は少年時代、学生時代に起こった関東大震災とその二年後、就職した後の飛行機開発とドイツ留学、テスト飛行の失敗と休暇での菜穂子との恋、結婚生活、開発した飛行機の成功に、主に分けられる。エピローグ的に、敗戦後の焼け跡とゼロ戦の残骸、カプローニの夢と、夢に出てきて別れを告げる菜穂子(と白いパラソル)が描かれる。
休暇から戻る汽車。汽車の煙は黒々と描かれ、デッキで佇む一人の乗客から、煙草の煙が上がる。その側で、二郎は座り込み、本に夢中になっている。二郎の帽子を、風が巻き上げ、隣のデッキで身を乗り出していた少女が手を伸ばし、つかむ。帽子をつかむためにデッキから落ちそうになった少女の身体を、二郎がつかまえる。
物語は、風に舞い上がる帽子→パラソル→紙飛行機(→再び帽子)をつかまえる動きで構成される。それが二郎と菜穂子とのあいだでやりとりされ、最後に飛行機になって飛んでゆく。菜穂子は死に、飛んでいったものは再び戻ることがない。
帽子のお礼を言った二郎に対し、ヴァレリーの詩を引用する少女。"Le vent se lève"(風立ちぬ) 返す二郎"il faut tenter de vivre"(いざ生きめやも)。
ほどなく地震が起こり、汽車がとまる。
ヴァレリーの風は魂の表象なのだろうし、空や煙、雲と関わってイメージの連鎖をかたちづくる。日本古典文学においても、煙は火葬の煙を象徴し、空が魂の立ち上る先であることは共通する。息は魂魄における魂。
(ちなみに冒頭に引用した和歌は、火葬の煙は関係ありません)
だから煙草の煙は、人の思い(思ひ/火)の象徴であり、予め行われた喪の儀式であり、空に立ち上る魂を意味する。飛行機は、こちら側からあちら側の世界へと向けて、旅立つもの。
関東大震災の場面は、地面の轟きや火災、逃げ惑う人々などがかなりはっきりと描かれる。密集する建物と群衆の動き。燃え広がる炎と、黒々とした煙。燃え上がる講堂や舞い落ちる火の粉から本を救おうとする描写は、図書館好きとしてはかなりツボだ。
山積みの本の間から、ひらりと舞い上がる紙切れは、どうやらカプローニからの手紙らしい。
飛行機が飛んだあとに起こったはずの戦争も、空襲も描かれず、エピローグ的な部分の後景としてしか描かれないのに比べ、震災はかなり特権的な位置を与えられる。たぶんこれがすべての炎の始発なのだろう。
次に風で飛ばされる何かをつかまえる動きが描写されるのは、軽井沢での休暇中の場面だ。この場面で、震災時に出会った少女、菜穂子と再会する。
丘の上で絵を描いていた菜穂子のパラソルが風に舞い上がり、下の道を通っていた二郎の目の前に飛んでくる。二郎は必死でそれをつかまえる。このパラソルは再会の場面、急に降りだした雨を凌ぐために使われる。
作品中で雨が描かれるのもここだけであり、雨の後に出た虹も、唯一の描写だ。「虹のことなんか、忘れていたな」と二郎は言うが、虹は二度と思い出されることがない。再会の場面で、菜穂子は泉に満願のお礼を言い、涙ぐむ。だから雨は、菜穂子の涙を象徴するのだろう。
水の描写は、これ以外では、関東大震災中に、菜穂子と、骨折したお絹(菜穂子に同行していた大人の女性。当初、二郎はお絹のほうに惹かれていたようにみえる)を背負って菜穂子の家に向かう途次、どこかの境内で休む主人公が、シャツに井戸水を含ませてお絹、菜穂子に与えた場面くらいしかない。これも同じく震災の場面で、井戸水の順番を待ち、顔を洗う二郎と(+水上タイプの飛行機の湖面or海面。夢に出てくるカプローニの飛行機は、水上タイプが多かったような)。燃え上がる炎を消す水は、あまりにも少ない。
体調を悪化させた菜穂子の病室に向かって、二郎は紙飛行機を飛ばす。屋根に引っかかった紙飛行機を必死で取ろうとする二郎。二郎が足を滑らせ、菜穂子が窓を開け、気づいたとき、風が起こり、紙飛行機は飛ぶ。菜穂子は紙飛行機をつかむ。
二人の間でやりとりされる紙飛行機。菜穂子の帽子が風に飛ばされ、二郎がつかまえる。ようやく、菜穂子の夢を受け止めた二郎。
ここから、菜穂子との婚約と、結婚、結核の悪化によって立ち去る場面、飛行機が飛ぶ場面まではほとんど一足飛びの印象だ。 テスト飛行の場面、飛び立つ飛行機を眺める二郎は、喜びもなく、何か放心している。それがついに二郎のものではなくなったこと、向こうの世界に飛び立ってしまったことを知っているからだろう。冒頭の落下の夢に暗示されるように、二郎は飛ぶことができない。地を這うことしかできない。だから飛び立つ飛行機を自分のものにすることはできないし、菜穂子がついにあちら側に行ってしまったら、手に入れることができない。
二郎は「美しい飛行機」をつくりたいという。けれども飛行機である以上、飛ばなければならない。飛んでいってしまうものは手に入れられない。だから本当は、飛ばない飛行機をつくらなければならなかったのだろう。
物語の終わり、カプローニの登場する夢は、やや蛇足的な印象だ。空襲の煙とゼロ戦の残骸を背景にエンドロールでも良かったと思うのだが、一切無駄のないこの映画、カプローニの夢にも一応意味がある。冒頭で少年時代の二郎が、カプローニについて書かれた一冊の本を手渡されるから。一冊の本は夢になり、手紙となり、関東大震災の炎から救い出され、風にのって舞い上がる。その意味で『風立ちぬ』は、一冊の書物によって枠どられた物語でもある。
おまけ。私の子どもののすけちゃん。