お庭でくびを傾げるのすけちゃん。画像と本文は、関係ありません。
今日もお仕事忙しかったよー。昨日、1日お休みだったから、何とか体力保ったけど。
それにしても、雨が振れば憂鬱で、晴れると黄砂や花粉にぼんやりする、春先の天気、どうにかならないものか。
さて、「病の金貨」シリーズ補遺4つ目は、ぐっと身近になって、恩田陸の『球形の季節』。ちょっと古いけど。
カレーパン一個(恩田陸『球形の季節』1994年)
時間は球形、空間は箱型に閉じられた正方形。川が流れていて、石がいたるところにあり、火事が多くて、山があって、高校があって、教会がある。これらを接点として、町の基層には別の世界が潜んでいるという。そして一方は日常体質で他方は非日常体質の二人の女の子。世界のつくり方は完璧。が、ここで描かれるのは、単なる異界の物語ではない。そこで表面化されるのは、男女差、より正確に言えば「女子校的感性」と「男子校的感性」なのである。
まず、ひとつの謎をめぐるこの世界の仕掛けを簡単に見ておこう。白(例えば、ガーベラの花)、紅(紅川)、黒(「裕美」が炎のにおいを強く感じる闇、黒い流れ)、などの色が注意深く並べられる。境界を超えるものとしての紅川、そこから呼び戻すための石。線路も一つの境界である。境界を飛び越える、ということに関わって、白いブランコ。異界・聖なる場所の収束点としての教会と如月山。そこに集中して男子校と女子校が二つずつ。町の反対側にあるジャズ喫茶(夜は居酒屋)「るいす」。願いを吹き込んだテープと、恋のおまじないの金平糖。テープは燃やされるが、金平糖は燃やされない。裕美の感じる(自分の体から発する)炎のにおいと、「おばちゃん」がその年頃にそれに耐えられず「一高」を燃やしてしまったこと。噂の裏で糸を引く「藤田晋」とその年頃に消えてしまった彼のおじ。その頃流行った石を靴に入れるゲーム。それらの中心にあって「女子校的感性」と「男子校的感性」を結び付けているものは、「噂」とそれが現実になってゆくことである。この物語は、少女消失の噂に始まって教会からみんなが向こうに行く直前(異界へ跳ぶ方向)で収束するかに見える。どちらかといえばマイナスイメージの多い願い事のテープ(誰かがいなくなってほしい)は主に男の子からもたらされるし、恋のおまじないの金平糖(誰かの心を引き寄せたい)をばら撒くのは、当然ながら女の子だ。「噂」に関するアンケートでも、「少年たちが「五月十七日に来る者」が侵略者であるととらえているのに対し、少女たちはそれこそ王子様か天使でもやってくるようにとらえているよう」だった。そして藤田晋が境界を超えるよう仕掛け、そこに行きたがっているのはすべて男の子であるのに対し、女の子たちは結局家にとどまり、「みのり」は呼び戻すための石を並べる。「いつの間にかこんな違った生き物になってしまった」みのりはそんな男の子たちに、「ほろ苦い喪失感と、ほんの少しの憎しみ」を感じ、「弘範」は女の子たちを気味悪く感じる。
それらの中で最も際立っているのが、藤田晋とみのりの対照であろう。「自分の不幸を通してでなくちゃものを見られない」のではなく「考えるだけであそこに行けた」、「退屈だというだけ」で境界を「跳び」、「みんなを“跳ばせ”」ようとする晋。「望めばいつだって。この瞳のまま、正気のまま」「あそこに行ける」けれども「あの場所に行く必要はない」、「ここで、このままの生活でいくらでも“進める”」みのり。
もしかして――もしかして、この場所こそ“進んで”いるんじゃないだろうか。ここに住む人々は、普通に平気な顔で暮らしていくだけで、どんどん先へ行けるんじゃないだろうか。この子のような人たちがいちばん前を歩いているのかもしれない。もしかして、あの場所こそ彼らにとってはただの懐かしい思い出のような場所なのかもしれない、彼らはあの場所をアルバムのようにしまいこんでいて、時々開いて見てみるだけなのかもしれない。
先程、この物語は少女消失の噂に始まり教会からみんなが向こうに行く直前で収束する物語だと述べた。が、このように見るならば、金平糖に始まり石積みに収束する、待っているものが世界を開いて、及びそばにいる(「違った生き物になってしまった」)人の心を呼び戻そうとする物語で枠取られていたことがわかる。日常生活でどんどん「進んで」行ける、それに退屈しない女の子たちの。
もちろん、女の子たちすべてが、そうなのではない。異常に勘が良く何度も川を超えた裕美、「東京でバリバリのキャリアウーマンになる」という久子。「「論じる生き物」と化した少年たちについていけず、いつも悔しく淋しい思いをしたため」「挫折感を持って「るいす」から遠ざかるようになった」みのりとは対照的に、久子は「ゲロ吐きたくなるような連中」「情緒不安定な男ってこの世で一番嫌なもんの一つよね」と切って捨てる。「大人」の「文学青年」は好き、そして藤田晋に惹かれるのだ。それでも裕美は「熱中した遊びに飽きたときのような虚脱感を覚え」「光あふれる退屈で懐かしい町」に帰り、久子も「燃えかす」「この何もない風景の中に、このみんなの願いの痕跡とともに」残されて日常の中に戻る。なぜならば彼女たちは、異界に抜けるための教会を必要としないから。非日常に渡らずとも、日常の中でそれを感じることが出来るのだ。それを象徴するのが、女子高の中、みのりと久子が喧嘩をする場面だろう。
止めに入るのかと思いきや、少女たちは顔を見合わせて入口の戸を押さえつけた。
「すごいよマジでケンカしてるよっ」
「あたしみのりにカレーパン一個賭ける」
「あたしそれに牛乳つけてチャコに賭けるっ」
(中略)
「誰が来ても入れちゃだめだよォ」
「OK」
ピーピーと口笛が飛び交い、乙女の園はすさまじい嬌声に包まれたのであった。
喧嘩には勝っても、久子は「何もない、ここには何もない」教会の扉を閉め、「くるりと背を向けて去っていった」、みのりのそばに戻るために。
本文引用について:恩田陸『球形の季節』新潮文庫、1999年。
『球形の季節』は、『ゴーレム』とか、『心臓抜き』とかと、結構共通する世界を持ってると思うんですよね。