人形と動物の文学論

人形表象による内面表現を切り口に、新しい文学論の構築を目指す。研究と日常、わんことの生活、そしてブックレビュー。

補遺4恩田陸『球形の季節』

2013-03-21 15:37:37 | 書評(病の金貨)
 
お庭でくびを傾げるのすけちゃん。画像と本文は、関係ありません。

 今日もお仕事忙しかったよー。昨日、1日お休みだったから、何とか体力保ったけど。
 それにしても、雨が振れば憂鬱で、晴れると黄砂や花粉にぼんやりする、春先の天気、どうにかならないものか。

 さて、「病の金貨」シリーズ補遺4つ目は、ぐっと身近になって、恩田陸の『球形の季節』。ちょっと古いけど。


カレーパン一個(恩田陸『球形の季節』1994年)

 時間は球形、空間は箱型に閉じられた正方形。川が流れていて、石がいたるところにあり、火事が多くて、山があって、高校があって、教会がある。これらを接点として、町の基層には別の世界が潜んでいるという。そして一方は日常体質で他方は非日常体質の二人の女の子。世界のつくり方は完璧。が、ここで描かれるのは、単なる異界の物語ではない。そこで表面化されるのは、男女差、より正確に言えば「女子校的感性」と「男子校的感性」なのである。
 まず、ひとつの謎をめぐるこの世界の仕掛けを簡単に見ておこう。白(例えば、ガーベラの花)、紅(紅川)、黒(「裕美」が炎のにおいを強く感じる闇、黒い流れ)、などの色が注意深く並べられる。境界を超えるものとしての紅川、そこから呼び戻すための石。線路も一つの境界である。境界を飛び越える、ということに関わって、白いブランコ。異界・聖なる場所の収束点としての教会と如月山。そこに集中して男子校と女子校が二つずつ。町の反対側にあるジャズ喫茶(夜は居酒屋)「るいす」。願いを吹き込んだテープと、恋のおまじないの金平糖。テープは燃やされるが、金平糖は燃やされない。裕美の感じる(自分の体から発する)炎のにおいと、「おばちゃん」がその年頃にそれに耐えられず「一高」を燃やしてしまったこと。噂の裏で糸を引く「藤田晋」とその年頃に消えてしまった彼のおじ。その頃流行った石を靴に入れるゲーム。それらの中心にあって「女子校的感性」と「男子校的感性」を結び付けているものは、「噂」とそれが現実になってゆくことである。この物語は、少女消失の噂に始まって教会からみんなが向こうに行く直前(異界へ跳ぶ方向)で収束するかに見える。どちらかといえばマイナスイメージの多い願い事のテープ(誰かがいなくなってほしい)は主に男の子からもたらされるし、恋のおまじないの金平糖(誰かの心を引き寄せたい)をばら撒くのは、当然ながら女の子だ。「噂」に関するアンケートでも、「少年たちが「五月十七日に来る者」が侵略者であるととらえているのに対し、少女たちはそれこそ王子様か天使でもやってくるようにとらえているよう」だった。そして藤田晋が境界を超えるよう仕掛け、そこに行きたがっているのはすべて男の子であるのに対し、女の子たちは結局家にとどまり、「みのり」は呼び戻すための石を並べる。「いつの間にかこんな違った生き物になってしまった」みのりはそんな男の子たちに、「ほろ苦い喪失感と、ほんの少しの憎しみ」を感じ、「弘範」は女の子たちを気味悪く感じる。
 それらの中で最も際立っているのが、藤田晋とみのりの対照であろう。「自分の不幸を通してでなくちゃものを見られない」のではなく「考えるだけであそこに行けた」、「退屈だというだけ」で境界を「跳び」、「みんなを“跳ばせ”」ようとする晋。「望めばいつだって。この瞳のまま、正気のまま」「あそこに行ける」けれども「あの場所に行く必要はない」、「ここで、このままの生活でいくらでも“進める”」みのり。 

 もしかして――もしかして、この場所こそ“進んで”いるんじゃないだろうか。ここに住む人々は、普通に平気な顔で暮らしていくだけで、どんどん先へ行けるんじゃないだろうか。この子のような人たちがいちばん前を歩いているのかもしれない。もしかして、あの場所こそ彼らにとってはただの懐かしい思い出のような場所なのかもしれない、彼らはあの場所をアルバムのようにしまいこんでいて、時々開いて見てみるだけなのかもしれない。

 先程、この物語は少女消失の噂に始まり教会からみんなが向こうに行く直前で収束する物語だと述べた。が、このように見るならば、金平糖に始まり石積みに収束する、待っているものが世界を開いて、及びそばにいる(「違った生き物になってしまった」)人の心を呼び戻そうとする物語で枠取られていたことがわかる。日常生活でどんどん「進んで」行ける、それに退屈しない女の子たちの。
 もちろん、女の子たちすべてが、そうなのではない。異常に勘が良く何度も川を超えた裕美、「東京でバリバリのキャリアウーマンになる」という久子。「「論じる生き物」と化した少年たちについていけず、いつも悔しく淋しい思いをしたため」「挫折感を持って「るいす」から遠ざかるようになった」みのりとは対照的に、久子は「ゲロ吐きたくなるような連中」「情緒不安定な男ってこの世で一番嫌なもんの一つよね」と切って捨てる。「大人」の「文学青年」は好き、そして藤田晋に惹かれるのだ。それでも裕美は「熱中した遊びに飽きたときのような虚脱感を覚え」「光あふれる退屈で懐かしい町」に帰り、久子も「燃えかす」「この何もない風景の中に、このみんなの願いの痕跡とともに」残されて日常の中に戻る。なぜならば彼女たちは、異界に抜けるための教会を必要としないから。非日常に渡らずとも、日常の中でそれを感じることが出来るのだ。それを象徴するのが、女子高の中、みのりと久子が喧嘩をする場面だろう。

  止めに入るのかと思いきや、少女たちは顔を見合わせて入口の戸を押さえつけた。
  「すごいよマジでケンカしてるよっ」
  「あたしみのりにカレーパン一個賭ける」
  「あたしそれに牛乳つけてチャコに賭けるっ」
     (中略)
  「誰が来ても入れちゃだめだよォ」
  「OK」
  ピーピーと口笛が飛び交い、乙女の園はすさまじい嬌声に包まれたのであった。


 喧嘩には勝っても、久子は「何もない、ここには何もない」教会の扉を閉め、「くるりと背を向けて去っていった」、みのりのそばに戻るために。

本文引用について:恩田陸『球形の季節』新潮文庫、1999年。

 『球形の季節』は、『ゴーレム』とか、『心臓抜き』とかと、結構共通する世界を持ってると思うんですよね。

補遺3『薔薇の名前』

2013-03-20 11:36:02 | 書評(病の金貨)
 病の金貨、補遺の3つ目をアップします。3つ目は、有名な『薔薇の名前』。ちょっとネタが古くなってしまったけど、ここまであげてきた小説に馴染みのなかった読者でも、ご存知かと思います。

YSPANIAのY(ウンベルト・エーコ『薔薇の名前』1980年)

 ランプは「アフリカの果て」にあったのに、炎が上がるのは、「YSPANIAのY」の部屋だ。そして、最初に燃やされるのは、アリストテレスの『詩学 第二部』ではない別の本。ホルヘはそんなに「笑い」を燃やさずに食べてしまいたかったのだろうか。
 この世界には、中心がない。「異形の建物」の中心は空洞となっており、ラストの焼け跡の場面では「内側はどこもかしこも無へ向かって落ちこんでいた」。そしてこの物語を統制するのが、失われた書物をめぐる謎なのだ。このあまりにも有名なミステリイにおける「鏡」「迷宮」「名前」「炎」の意味をくだくだと述べるのはやめておこう。ここで確認しておきたいのは、物語の中心が空洞であること、クライマックスで火の手が上がるのがその中心からではないことだ。物語の中心は空洞であるのだから、燃やすことは出来ない(そもそも「笑い」は、そういうものではない)。ではなぜ炎が上がるのが、「YSPANIAのY」の部屋の、名前も記されぬ書物からであったのか。それはいったい、どのような書物だったのか。先に結論を言おう、これは『愛の鏡』である、とともに名前も知らぬ本である。
 アドソとウィリアムが二度目に「迷宮」に潜り込んだ場面、おのおのの明かりで、おのおのの「好奇心」の赴くままに本を見る。アドソは「LEONESと名づけられた部屋から部屋を回っているとき(中略)隣の部屋に入りこんでしまった」。「Y」の部屋は「LEONES」の「S」の隣であるのだから、「隣の部屋」は「Y」の部屋である可能性がある。光学に関する書物を集めた部屋の隣、病に関するそれを集めてあった。因みに「S」の部屋は、例の鏡の部屋である。件の本は、「愛の病」に関するもの、彼は修道士として可能なその治療法を得ることは出来ない。そして「あのような満たされきっていたときに、なぜ妄執の虜になったのであろうか」と思う。この本には「愛する相手の幻影だけを糧にして生きるようになる。そうなれば精神も肉体もすべてが炎となって燃えあがり」とあり、この「愛の鏡」に写る「幻影」は「鏡の上の偶像」と等価なものである。彼は娘と再会することはないのだから病は癒されたものと思い込もうとするが、実際には救い得ない自分と、魔女として捕らえられた、やがて火刑にされる者として再会することとなるのである。また、「論証は〈言葉ニヨッテ〉推測されるのであって、〈事物ニヨッテ〉ではな」く、過去の事物は失われ、その名前だけが残るものであるのに、彼は少女と言葉が通じず、名前も知ることが出来ない。文書庫が炎に包まれる場面で、「水がない」ことが強調されるが、それは彼が彼女を救い得ないことを象徴し、最初に燃やされた本の名が記されもしないのは彼女の名前を知らないことに対応する。また、『第二部』が「書き出しを欠いた書物」であったのに対し、「エピローグ」で焼け跡を訪ねたときには〈書キ出シノ文字〉が目にとまっているが、「YSPANIAのY」は書き出しの文字である。
 名前のみが知られていて、内容は散逸してしまった書物(及び「笑い」)と、名前は知らず、身体だけがある少女(及び「愛」)が対照化され、名前のない事物(愛)のほうから出火する。過去は失われてしまい、名前だけが残る、としても、彼はその名前すら、知らないのだ。病は癒されるのではない、焼け跡は冷え切ってしまった。

 写字室の中は冷えきっていて、親指が痛む。この手記を残そうとはしているが、誰のためになるのかわからないし、何をめぐって書いているのかも、私にはもうわからない。〈過ギニシ薔薇ハタダ名前ノミ、空シキソノ名ガ今ニ残レリ〉。

 彼は、「薔薇の名前」を知らない。

 本文引用について:ウンベルト・エーコ 河合英昭訳『薔薇の名前 上・下』東京創元社、1990年。

私の読み方。

2013-03-20 11:11:11 | 研究の話
 昨日はお仕事が忙しかったから、疲れたよ~。

 私がしんどいしんどい言ってたら、母に、私の歳のときはしんどくなかった、って言われた。
 まだ32なのに毎日しんどいって、変ですか?
 でも、大学院とか行ってたら、病気になる人も多いから、特に問題なく過ごしてきた私はよっぽど丈夫なんだと思うんだけど。

 私、たぶんこのブログ公開し始めてから、1日に平均2~3くらいの記事をアップしてきてると思います。冷静に考えたら頭おかしいペースなので、自分にとってのこのブログの位置づけをちょっと説明しておこうと思います。まあ、私の頭どこかはおかしいと思いますが。
 私にとってのこのブログは、日記というよりも、自分の文章やアイディアのサンプルを貼り付けて、公開するための場所。純粋に日記として書いた文章は、そんなに多くないです。疲れた~!みたいな、ツイッターでも書けそうなものも多いし。
 むかし書いた文章で、どこかに投稿する可能性がないものも、そのまま貼り付けてます。だから学部生時代に若いいきおいのまま書いた文章や、院生時代のまだ文体の固まってない頃に書いた文章もたくさんある。新しく書いた文章は、そんなに多くないです。書きたいんですが、なかなか時間がとれなくて。今書いた文章としては、一番最初にあげた、『冥府の建築家』の書評。これがたぶん、一番今の私の文体が出ていると思う。
 
 ただ、研究者としての訓練を受けたので、文章はだいぶん変わったし整ったと思いますけど、小説の読み方や発想は、21、2歳頃とあんまり変わってないかな。その頃に、今「病の金貨」シリーズとしてあげてる本とか、『薔薇のイコノロジー』と『薔薇の名前』と『虚無への供物』を一緒に読んだことなんかで、私の読み方は決まってきたんだと思います。

補遺2山尾悠子『仮面物語』

2013-03-18 21:08:34 | 書評(病の金貨)
「病いの金貨」補遺、ふたつ目は、山尾悠子の『仮面物語』。『作品集成』に、書きなおされて「ゴーレム」という作品名で載ってるけど、私は『仮面物語』のほうがいいと思うな。たしかに、「ゴーレム」のほうが落ち着いて整ってるんだけど。

破壊された卵(山尾悠子『仮面物語』1980年)

 白、黒、紅、二重館、複数の分身関係、首から下は機械人形の領主の娘、アマデウスという名のオートマータ、塔に篭もりきりの領主(その名も加賀見氏)、離魂作用のある水盤、魔術師のゲットー、魔術師の白子の弟子。防水外套の水滴、増水する街(その名も鏡市)、霧や光(炎と煙)や水の流れ、光と影、増殖する石蚤とそれによって曇る鏡、鏡の迷宮に、鏡の仮面、水上街炎上図まであって、ラストはそれらが氾濫する絢爛たる世界である。市境は閉鎖され、何重にも枠取られた世界、泉鏡花ばりの水の構図(因みに「泉」「鏡」「花(火花)」が重要な役割を果たす)。機械仕掛けなキャラクターが、機械仕掛けな物語を展開するこの世界では、既に人間とオートマータ、ゴーレムとの区別は失われている(それどころか、虎やスピンクスとさえも)。そして彼らを行動させるのは「好奇心」と「恐怖」。
 これは「魂の顔」を見る能力を持った彫刻師「善助」が分身との対決を経てその力を失い、一人の芸術家となるまでの話である。これに対して、彼の行く先々で現れる筋書きになっている「不破」は自分自身である「破壊された女」を失い、事故死体の再現群像で正当からは黙殺されるもカルト的な人気を博する芸術家となった。やがて言葉を失ってしまう童女「櫂」、人間ではないもの(スピンクス)となり、魂が行方不明となる領主の娘「聖夜」。これら(「分身」「魂」「言葉」「人間」等)とともに失われるのが、「名前」であろう。魂を失って自己の名前を忘れてしまったアマデウス、「あなたは誰」という問いばかりを繰り返す櫂。「不滅のスピンクスは、今でも鏡を見つめながら、永遠に答えの戻ってこないひとつの謎を問いかけ続けているのだろう」。
そして、物語中盤で命を失ったのが物語りの展開を予測するような詩を書いた「卵喰い詩人」である。この詩人の固茹で卵は水盤の水に離魂作用を与えたものなのだが、「孵化する前に卵の見つづける夢を、そのまま茹であげて凝固させた食物。これは夢を見させてくれる」。さらに彼は迷宮のような二重館の出口を探し回った挙句〈外〉が実在することを信じられなくなり「扉が静かな音をたてて閉じたこと」にも気づかずに、「両手の中の微光を帯びて潤った一個の美しい卵」の中に入り込むのだ「この卵喰い詩人は、その長からぬ生涯のうちでもっとも幸福な瞬間へと、さしかかろうとしていたのである。/ 熱した鍋の上で激しく蒸発していく水蒸気のような音をたてて、雨音が夢の外側で持続している」。凝固した瞬間と夢の卵。これを「不滅のスピンクス」と考え合わせてみたい。「凝固」と「不滅」、及び眼=鏡と卵の関係(「暗い一枚の鏡と化した眼に卵の姿を映し」)と鏡とスピンクスの関係(「鏡を見つめる不滅のスピンクス」)は類似し、「純白の卵」は「黄金の四肢」を持ったスピンクスに変貌する(卵喰い詩人がアマデウスの「黄金の傷口」を見ていることに注意)。また、ゴーレムの鉄仮面は「卵形」と形容されるが、「〈土の精霊〉である詩人」が卵とともに水盤に落ちて死ぬのと同じく、ゴーレムも水盤に落ちて泥の塊に戻る。「卵の夢」に対して、櫂が善助を見るまでの「夢を見るばかりの単調な生活」のことが「夢の樹液に根を浸して育っていた櫂の蛹の時代」と呼ばれている。そしてこの詩人の詩は「自動筆記めいた」「右手が勝手にペンを取って」と描写されるが、これは「影盗み」の右手が勝手に見たものの魂の顔を作り上げるのと等しい。新生の「卵」と対照的な「柩」「石室」などの語が頻出し、葬儀(で飾る死者の像)が重要な場面となる(「内側にめくれこむ」との形容にも注意)。
 さて、詩人は「至福と絶望に混乱しながら」「真の詩人への新生の歓びと、霊界の騙し討ちへの恨みとを同時に持ったまま」死ぬが、ラストでこの混沌の卵は割れ、「影盗み」善助はその能力を失ったときに「不滅のスピンクス」の作者、芸術家として称えられるが、不破は彼自身=「破壊された女」が失われた恨みを抱きながら、「破壊された人々」の作品群をつくり続けることとなる。内と外を隔てる殻(鏡を覆う石蚤・ゴーレムの鉄仮面)は消え、「好奇心」と「恐怖」、光と影、仮面と魂、炎と水、名前と身体、「新生」と死、「歓び」と「絶望」はついに別れることとなったのだ。彼女が永遠の謎を問いかけ続ける鏡は、曇りなく澄み切って。

 卵 割レル

本文引用について:山尾悠子『仮面物語〈或は鏡の王国の記〉』徳間書店、1980年(中編小説「ゴーレム」『山尾悠子作品集成』国書刊行会、2000年所収、とは別作品と見なす)

 こういう卵のイメージって、冲方丁の『マルドゥック・スクランブル』とかにもあると思うんだけど、あんまりそういうこと言ってる人知らないな。「卵小説」という切り口ってありかしら? えっ、『天使の卵』? それは違うでしょ?

雨降り。

2013-03-18 21:00:58 | 日記
 今日は、もう一人の人とシフト交代してた(お子さんの卒業式らしい、この前のシンポジウム行った土曜日の代わり)から、午前中お仕事。
 ちょっと疲れたよ。頭痛いのは、雨のせい? あ、痛み止め飲むの忘れてる。



 のすけちゃん。写真撮られるの嫌いだから、顔がちょっと怒ってる。


 ろこちゃん。ガムテープで遊んでます。