人形と動物の文学論

人形表象による内面表現を切り口に、新しい文学論の構築を目指す。研究と日常、わんことの生活、そしてブックレビュー。

文体論の提案:私はムラカミハルキが苦手

2013-04-15 09:42:26 | 仕事と研究
 世間では村上春樹の新刊が出たというので、お祭り状態みたいですね。
 でも、私は以前どこかに書いたと思いますが、春樹は苦手。好きとか嫌いとかいう以前に、全然読めないのです。だから、宮台真司の言うように「村上春樹の新刊は糞」なのかどうか、私にはまずもって判断のしようがない。
 とは言え、「人文系ライターの養成」を提案する当ブログとしては、ちょっと一言ぐらい、言及したほうがいいですよね

 基本、小説は愉しみであり、贅沢なんだから、好きなものを読むべきだと思っている私。でも、ときには必要があって、苦手な小説についてアプローチしなくちゃいけない場合があるかもしれない。そういう場合に、文体論は有効です。

 「読めない」というレヴェルで苦手な場合、文体に何か原因があることが多い。だから、何が苦手なのか、ということを突き詰めてゆけば、文体的な特徴が見出だせると思います。

 村上春樹の場合、極端に情報量の少ない文章が続くことが、特徴だと思います。しかも、情報量の密度が一定のまま、延々続く。たいていの場合は、軽い、情報量の薄い文章がいくつか続いても、一つの段落に一文ぐらいは、ぐっと、圧縮した文章があるものです。でも、春樹の場合はそれがない。
 その、一定な感じが、心地よい人もいれば、私みたいに苦手、読めない!という人もいるんだろうな、と思います。

 因みに春樹は、米文学の翻訳をたくさんしてますが、私、米文翻訳調も苦手なんですよね。かなりテイストが好みの小説でも(例えばジョナサン・キャロルとか)、文章はちょっと読みにくい。
 何なのか考えてみたら、米文翻訳調って、一文が短いんですよね。しかも、文章と文章の接続が明示されないまま、ばらばらと置かれる。
(ついでに言うと、「僕は…だったんだ」「僕は…だよ」的な文体も苦手なんですが、これについてはまだツメて考えてないです)。
 英語は簡潔だというイメージがあるのでそういうものだと思われる方もいるかもしれませんが、関係代名詞やコロン、セミコロンで続けてゆく方法はいくらでもあるので(修士の院試のときに、そういうの、出たよ)、たぶん、米文学の特徴なんだと思うんです。英文翻訳調の場合は、そんな風に感じませんし。

 私は独文翻訳調みたいな、息の長い文章のほうが好きなんですよね~。トーマス・ベルンハルトみたいな(あれはちょっと特殊ですが)。

今日のごんちゃん。

2013-04-14 21:01:09 | 犬・猫関連
 今日はごんちゃんのところ(訓練所)に行って来ました。
 私たちは車に乗れないので、電車の乗り継ぎ。結構疲れたなあ…。母は帰りに切符なくすし、ちょっと、大丈夫かなと…。まあ、疲れてるだけだと思いますが。

 電車のなかで高校生くらいの子が何人か、お出かけしてるのと一緒になったけど、彼女たちはおもちゃみたいなお洋服に生脚で、おもちゃみたいな靴履いて、寒くないのかな…と。若いからできることで、私が同じことやったら、確実にカラダが壊れるよ。
 かと思えば、老人(男)は老人で、車内に迷い込んできた立派な蜂を素手で退治(素手で数回窓に叩きつけて動かなくなったところをつまんで床に落とし、靴で踏み潰す)し…。同じことを私がやったら、確実にカラダが壊れるよ(絶対しないけど)。


 ごんちゃんは今日も相変わらずビクビクしてましたが、私たちが帰るときには寂しそうに見てたので、全く忘れてしまっている、というわけではないみたい。甘えたりする(精神的な)余裕がないのかな。次会いに行ったときには、もうちょっとマシになってるといいなと思います。

日文協大会(2012年)印象記。

2013-04-11 21:34:00 | 学会レポ
 日本文学協会第67回大会(第二日目)の記事が、『日本文学』4月号に出ました。
 大会テーマは「書物とリテラシー」、パネリストは小峯和明氏、木元氏、松浦寿輝氏。
 私が書いた印象記「紙の皮膚、書物の身体」も載ってます。

 まず訂正とお詫びから。

 1行目、大会テーマ(誤)「書物のリテラシー」→(正)「書物とリテラシー」
 38頁下段2行目、4行目、11行目(誤)高木→(正)木

 大変申し訳ございません。とりわけ木氏には、失礼致しました。お詫び申し上げます。
 なぜこれに気づかないんだ私…。猛省しております。

 いくつか、字数などの関係から書ききれなかったことを。
・前提として確認しておきたいのだが、基礎学としての文献学が軽視される傾向にあったというのが事実であるとすれば、
1.(質問用紙にも書いたことだが)ものとしての書物に対する愛着はフェティシズムであり、フェティシズムを抑圧したところに近代学問としての文学研究が成立した点、
2.物としての書物にアクセスすることができる人間が限られるため、公平性を確保することが難しい点
に原因があると考えられる。
 とはいえ、松浦も言うように抑圧しなければならないほどの書物愛が根底になければ文学研究は困難となるだろうし、近代学問としての国文学成立以来のたゆまぬ努力によって、二点目の問題もかなり軽減されたといえる。

・グローバルなネオリベラリズム化による学問環境の変容に関して。
 「書物とリテラシー」というテーマから、図書館のことなどにも当然言及があったのですが、図書館はいろいろな学問分野の人が共通して利用する場所であって、学問の足場を組み直すためにも重要な機能を果たすだろうと思います。
 今は、競争で、限られた学問分野、大学だけが勝ち残ることができる状況なのだろうと思うのですが、それだと学問にとって一番重要な多様性が確保できないし、勝ち残った大学や学問分野も、まるで別物に変えられてしまう…ような結果になりかねない。それを回避するために、多様性を確保すること、多様な学問分野が共有できるような足場をつくること、は重要だと思います。
 例えば司書課程における情報系科目の追加も情報工学の生存戦略としてあるのであって、ともに学問環境の足場を組みなおすことができなければ、チキンレースの果てに自分で自分の首を絞める結果になりかねない。何度でも繰り返し言いたいのですが、これから就職する大学院生やオーバードクターにとって、これは「生存」の問題に他ならない。

 松浦さん、この日は犬の散歩があるということで、懇親会にも参加されなかったのですが、
 ブログなどを拝見しておりますと、わんこちゃんは現在、鼻腔癌で治療中のこと。
 犬の病気の場合、治療方針なども本人が決めてくださいというわけにはいかないので、飼い主が決めるしかなく、いろいろ悩むことも多いかと思います。あまり無理をしない程度で…と思うのですが。治療、うまくゆくことを祈っております。

お墓参り。

2013-04-11 21:26:44 | 日記
 今日は父の命日だったので、仕事の帰りにお墓をお参りしてきました。


イノシシに注意! ということでイノシシのぬいぐるみ?が吊るしてある。


うちのお墓はわんこちゃんが目印。

 風強いし、途中で雨は降ってくるしで、なかなかお線香がつかなかったです。そして寒かった…。

 父が亡くなってから、もう4年になるのだなあ…、4年間というと、私が博士課程後期課程に進学してから修了するまでの期間と同じ(父の病気がわかってから、私は慌てて博論書いた)…、と思うと、私、この4年間で何かできたかな、と思ってしまいます。