人形と動物の文学論

人形表象による内面表現を切り口に、新しい文学論の構築を目指す。研究と日常、わんことの生活、そしてブックレビュー。

ごんちゃんの帰還。

2013-05-23 00:43:02 | 犬・猫関連
 訓練所に預けてあった子犬がわが家に帰って来ました。
 昨日去勢手術も済ませ、体重は16.5kgに成長し、すっかり大きく…。
 帰ってきてからずっと、ゲージのなかで固まってしまっていて、ごはんも人がいると食べない(いなくなると食べる)。オス犬同士同じ場所に置くと喧嘩するので、1階の店舗部分(自転車屋をやってます)に置いたのですが、いままで置いたことのないところなので、それも不安だと思います。

 今日、里親さんになりたいというご家族が見に来られたのですが、すごくきちんと大事にして下さる感じの方だったんですが、小さな子どもが3人(しかも3人とも男の子)もいたので、これは無理だ…と。うちの比較的マシな子でも、子どもは苦手なのに。

 そんな感じで、今日はくたびれ果ててます。

国立国会図書館採用試験「文学」、近年の傾向

2013-05-19 11:04:13 | 国語教育と文学
 今日はざっくり近年の傾向を。近年の傾向、と言っても、3年分しか見れないのですが。以前受験した(年齢制限に引っかからなかった)ときにプリントアウトしたぶんは、もう処分してしまったみたい。あのときは、あっさり一次試験で落っこちたので、まったく利用しなかったんですが。

 共通問題は、22年「盗作」について、23年「インターネット」、24年「メタフィクション」。
 情報メディアの発達によるオリジナリティ概念の変容に注目しているようですが、やっぱりちょっと24年は異質かな。「メタフィクション」には、先行する文学作品を踏まえたかたちのものも多いので、一貫する部分もありますが。…となるとやっぱり、ボルヘス『伝奇集』(「『ドン・キホーテ』の著者、ピエール・メナール」)でも読んでおけ、って話になります。

 図書館的には、著作権に関わることが重要ですが、これは「文学」専門の問題なので、著作権のことを問題にしてるわけではないと思う。翻訳や翻案、パロディなど、関係する概念も把握しておくと良いでしょう。
 文学に関わるオリジナリティの問題としては、近世的なパロディや翻案の世界から、近代的なオリジナリティの概念が生まれてきた過程を考察した甘露純規『剽窃の文学史』(森話社、2011年)、文壇における「盗作」事件を扱った栗原裕一郎『〈盗作〉の文学史』(新曜社、2008年)があります。前者は学術書、後者はスキャンダルについて扱った本で、全然異質なので、並べるのはちょっと変なのだけど。「盗作」に関わる問題について知っておくには、どちらも有用だと思う。とりあえず、「盗作」の定義を考えておきましょう。
 近年、近代的なオリジナリティ概念が揺らいでることについても、考えておこうね。

 →ということで、「文学とインターネット」の話題になるわけですが、ちょっと漠然としてますね。自分でテーマ絞って書かなきゃいけない。具体例を上げつつ論じなさい、とあるので、自分が書きたい具体例に合わせてテーマを絞ればいいと思います。図書館的にはやっぱり、インターネットを利用した文献検索や電子資料の公開、それからコピーアンドペーストなどによる(レポートなどの)剽窃の問題が重要になりますが、それだと、「文学研究」の話ではあっても、「文学」そのものの話ではないからね。このテーマ、結構難しいと思います。
 とりあえず港千尋でも読んでおけばいいんじゃないかな(適当)。私がこのテーマで扱いたいのは飛浩隆の『廃園の天使』シリーズですが、内容の説明だけで字数食うから厳しいかも。ちなみに、電子メディアの発展による書物/身体イメージの変容については、私もちょっとした文章(日本文学協会第67回大会印象記「紙の皮膚、書物の身体」『日本文学』2013年4月号)で触れたことがあります。


 独自問題は、22年「内面」、23年「絵画と文学」、24年「文学は震災に対して何ができるか」。それぞれ柄谷行人『日本近代文学の起源』、レッシング『ラオコオン』、井口時男「それでも言葉を書く」が課題文となっています。24年については既に書きました。まだ『ラオコオン』読んでないので詳しいことは書けないのですが、22年、23年と、絵画と文学との関わりや、芸術論における文学の位置づけをテーマとしているようですね。
 というのも、『日本近代文学の起源』で提示される「内面」概念は、線遠近法(消失点を設定し、近いものを大きく、遠いものを小さく描く手法)との類似から語られるので。汎用性の高い概念で、何でも自分が専門とするテーマ(卒論で扱う作品とか)に適応可能だし、課題文もついているので、書きやすいと思います。
 その際、線遠近法的な「内面」概念の限界にも、触れておくべきでしょう。

 この流れでゆけば、映像や写真と文学との関わりを問う問題が出てきそうですが、震災を挟んで、「文学は震災に対して何ができるか」という問題が出てきたので、今後どちらの流れになるかは不明ですね。


 そのうち、共通問題、独自問題とも、それぞれ一題ずつ取り上げて、詳しく論じるつもりです。

 では!


すねてるのすけちゃん。目を閉じかけたので、半眼になってしまった。

昨日の続き。

2013-05-16 21:14:55 | 国語教育と文学
 井口時男「それでも言葉を書く」読みました。
 ご本人のブログで見ることができます()。
 昨日書いたことを、たぶんそれほど修正する必要はない。

 どのあたりから引用されたのか、確証はありませんが、たぶん、「文学は現実の悲惨に指一本触れられない。~文学の自由は真に試される。」あたりか、結論部分の「文学の声は多様なのだ。~文学は死ぬ。」あたりですかね?
 最初あげた部分は、安易に現実と関わろうすると宣伝や扇動となる。現実から自由である文学は一見無力にも見えるが、自由でありつつ現実と対峙する緊張のなかに、文学の意味はある、ということ。
 結論部分は、文学は多様な人々の声を拾い上げるものであるということ。この部分は、ちょっと修辞は多いけど、さして難しいことは言ってないかな。
 課題文があるので、200字くらいで要約してから論を展開するようにしてください。

 では!


ヨーグルトの容器で遊ぶカイちゃん。黒い犬だから、やっぱりあんまりきれいに映らない。


国立国会図書館採用試験「文学」教科書の企画案が、閲覧されてるようですが・・・

2013-05-15 22:40:06 | 国語教育と文学
 最近、国立国会図書館採用試験の「文学」を利用した、教科書の企画案が、やたら閲覧されてるようですが、試験が近いからでしょうか?

 検索してみて、「教科書作りませんか?」みたいな記事につきあたっても、受験生としては困ってしまいますよね…。

 だからちょっと、実際に「文学」で受験する人のためにアドヴァイスをしようと思います。
 ただ、まだちゃんと調べがついてないし、さすがに私もお金も貰わないで模範解答を書くなどの手間はかけられないので、簡単なコメントだけ。受験するつもりであれば、それこそきちんと図書館で調べてください。
 引用文もおそらく著作権の関係から省略されてますが、できるだけ探しておくようにしてください。

 最初の語句の問題は、文学辞典などで引いておくこと。丸暗記するのではなく、関連する情報なども見て、立体的な文学史の把握ができるようにしておいてください。
 きっちり字数通りに情報をまとめる訓練も重要です。

 昨年の試験問題についてですが、共通問題の「メタフィクション」の役割。
 フィクションがフィクションであることを明示した、フィクションの構造に自己言及的なタイプのフィクションを指すのですが、これ、国語の教科書などでは絶対出てこない感じのもので、知らない人は全然知らないかもしれない。ピンと来ない人は、とりあえずボルヘスの「バベルの図書館」(『伝奇集』)でも読んでください。図書館ネタだし、図書館受ける人にはいいと思う。最近のものだと、昨年芥川賞とった円城塔の小説は「メタフィクション」って言われてます。
 独自問題の「震災」との関連から言えば、「原発」との関係から、笙野頼子の『水晶内制度』or『おんたこ』三部作、というのもありかも。ただ、字数内で論じられるほど単純な話ではないので、あまりオススメは出来ない。
 わざわざ「メタフィクション」と言われる小説を読んで論じるよりも、何でも自分が専門とする(卒論のテーマとか)作品のなかで、メタフィクション的な部分を探してきたほうがいいかも(例えば私の専門とする『源氏物語』だと、末尾に「とぞ本に侍るめる」、とあるような)。
 論理の流れとしては①「メタフィクション」の定義づけを行うこと。②具体的な作品の分析(or紹介)。③「メタフィクション」の役割。と進めるといいと思います。ただ、600字~800字だと、大したことは書けない。
 「メタフィクション」の役割、というのも、何に対する役割なのか、ちょっと、曖昧ですね。だから、自分で決めなくちゃいけない。現実社会に対する役割なのか、個人に対する役割なのか、あるいは、純粋に文学的な役割なのか。個人的には、フィクションのフィクション性を自覚させることで、世界を変容させるとか、違和感をもたらす、みたいな方向性だと持っていきやすいです。
 国語教育などでの文学の扱われ方って、共感的な、登場人物に感情移入して、気持ちを理解するみたいな感じだと思うのですが、「メタフィクション」はそれとは方向性が逆。だから、国語教育的な、「人の気持ちを理解する」みたいな方向性だと、全然役に立ちません。まずそのことに触れ、それに対する反論として構成すると書きやすいと思います。

 独自問題が、「文学は震災に対して何ができるか」。
 これ、実は私まだ、井口時男「それでも人は言葉を書く」の調べがついてません。読んだらまた、記事書きますね。『新潟日報』と出展も明示されてるので、調べるのはそれほど難しくないはず。コピーをとったらまず、どこから引用されたかな、と予想を立ててみましょう。

 まだ調べがついてない状態なので、具体的なことはあとで書きますが、一般的に、「文学」と「震災」というテーマで考えてゆくときに、まず、文学は震災に対して無力である、という考え方について触れなければなりません。その上でそれに、反論する。
 「無力である」と言われるときの言われ方には3つくらいパターンあって、現実に圧倒されるから、どんなフィクションよりもインパクトが強いから、というのが1つ目。2つ目は、震災について言われるときの言説が、クリシェ(決まり文句)でしかない、生な実感を伝えるものにはなりえない、というもの。それから、どれほど頑張って言葉を紡いでも、現実を変えることが出来ない、というのが3つ目。字数がさほど多くないので、一つに絞って書くといいと思います。
 これに対して反論するのはなかなか難しいのですが、
・和合亮一のツイッター詩について
・いくつか、関東大震災後に影響を受けたといわれる小説もあるので、それについて触れる、など。
みんな書くでしょうが、600字~800字の小論文で、独自性を出す余地はあまりない。
 
 まあ、まず、「それでも人は言葉を書く」を読んでみないことにはどうしようもないですが。

 私の好きな作家に、W.G.ゼーバルトという人がいるのですが、「空襲と文学」というエッセイのなかで、ドイツには空襲を描いた文学はない、この作品とこの作品は一応書いているように見えるけど、単なるクリシェだとか、修辞であるとか、描いているとはいえないと言って、猛烈な勢いでダメ出ししていくんですよね。で、結局どういう書き方があるのかというと、ただ淡々と、修辞を廃して、書いてゆくしかない、というような。
 「空襲と文学」で扱われているのは、第二次大戦末期のドイツの空襲なのですが、「表象不可能」と思われるようなおおきな事件、事故、災害などについて言われているということで、思い出しました。

 こう見ていくと、共通問題にも独自問題にも共通するニュアンスを感じますね。文学は現実に対して何ができるか。世界をどう変容させることができるのか。もちろん、簡単に論じきれるような内容ではないですが、考えることはムダではない。

 関連する情報として、図書館のアーカイブ機能(震災の記録を残す)、最近の話題として、電子図書関係のことなど、調べておくと良いかも。


門の外を眺めるのすけちゃん。人が通ったので、吠えたそうに口が半開きになってる(吠える寸前)。

 

今日のごんちゃん、5月13日。

2013-05-13 21:33:42 | 犬・猫関連
 今日は訓練所のごんちゃんのところに行って来ました。明日甥っ子たちが来る日なので、母がお掃除しないといけなくて、行けなくなったのです。で、代わりに私だけで行くことに。
 来週半ばには帰ってくることになるので、いろいろ聞いておかなければならないことも。
 お散歩にはある程度行けるようになりましたが、訓練所のそばの道は、ほとんど人が通らない。うちは一応市街地なので、そういうわけにもいかない。土があるところまでなかなか辿り着かないし(香川県はやたらと道路の舗装率が高いのです)。
 どうなることやら…、という感じですが、まあ、いつまでも訓練所に預けておくわけにもいかない。

 
 ごんちゃん、あまり大きくはなってなかったけど、耳が立ってました。

 そういうわけで、今日は疲れた。お休みのあいだにしようと思ってた用事は、全然出来てないよぉ。