その1、その2を書いてからだいぶん時間がたちました。
ちょっと気ままに書き進めてしまったので、結論部分が書きにくい感じに。ここらで少し仕切りなおしします。
読みの軸は2つあって、ひとつ目が、
その1で書いた花粉のこと。
『第七官界彷徨』に関しては、なぜコケが花粉を飛ばすのか、という点。
『それから』に関しても、代助がアマランスを受粉させる場面があるんですが、赤い花は生殖に関わって描かれてる。でも、ヒロインの三千代は子どもを産めないし、心臓病でそもそも生殖行為自体がたぶんできない。冒頭で描かれる「赤ん坊の頭ほど」の大きさの椿の花が、ぼとりと落ちる、というのは、生まれ落ちてすぐに死んでしまった三千代の子どもを象徴する。生殖を象徴する赤い花ではなくて、対照的に描かれる香りの強い白い花が、恋愛物語を展開させる、というようなことを以前論じたことがあります(「生殖の拒絶―『それから』における花のイメージ」『名古屋大学国語国文学』2009年11月)。
『第七官界彷徨』においても、においは重要な意味を持つし、人間がまっとうに恋愛しない、というのは何度も指摘されてること。
ふたつ目は、
その2で書いた、歩行と彷徨(遊歩)、詩と散文に関わること。
『それから』においても、代助は頻繁に散歩してるし、「歩行」と「写生」とに関する論文もありました。で、かなり、詩や小説、散文に関するメタフィクショナルな言及が多いんですよね。
尾崎翠に関しては、その名も「歩行」という題の短編もあることだし、作品のなかで何度も「詩」について言及されるのは、言うまでもないことです。
ベンヤミンの「遊歩者(フラヌール)」って、みんな大好きみたいなんで、そういう観点からの論文ってわりとあるようなんですが、それと詩=舞踏、散文=歩行というヴァレリーの比喩を結びつけた論文はあまりないみたい。
大体そもそも、欧文脈においては、靴=言葉を象徴するし、歩くことは書くことを象徴する、という発想があるわけでしょう(だから、真面目に論文書くんであれば、ヴァレリーじゃなくて、もっと漱石が読みそうなものとか、確実に読んでいたと証明できるもののなかで類似の比喩を探すのが筋なんでしょうけど)。
「足にぴったりあった靴さえあれば、どこへでも歩いていける」で始まる、須賀敦子『ユルスナールの靴』の印象が強すぎるのかな、私。
日本でも文/踏みという掛詞があるから、全然ないことはないんじゃないのかな。なんだっけ、鳥の足跡を見て文字を思いついた、という中国の故事もあることだし。
だから、歩行でも舞踏でもない彷徨とか、散歩として、詩でも散文でもない「小説」というジャンルが提起されている、と考えているわけです。
で、この2つを、どうやって結びつけたらいいんだっけ…、と、いま、思ってます。
のすけちゃん。一昨日の写真。お散歩行ったときにつけた、花のシミがおでこにまだついてる。
しろりんちゃん。母が姉たちのところに行っている時なので、耳を澄ましてる。
弟がさっき帰ってしまったので、のすけちゃんはしょんぼりしてます。