人形と動物の文学論

人形表象による内面表現を切り口に、新しい文学論の構築を目指す。研究と日常、わんことの生活、そしてブックレビュー。

次の日文協で発表します。

2013-05-13 21:27:05 | 研究・発表・イベント等情報
 今日届いた『日本文学』にプログラムが載ってたので、告知しますね。

 7月7日の日本文学協会第33回研究発表大会(於:神戸大学)で発表します。「『源氏物語』の人形と内面」という題で発表させて頂きます。

 最近、近現代小説で論文書いてたから久しぶりな感じがするけど、『源氏』で発表。でも、最近の人形ブームの話とかも、できれば取り込みたいです。発表時間があまり長くないから、どれだけのことを言えるかまだ分からないんですが。
 人形に関する研究しを調べてると、わりと有益な情報も出てきたので、何とかなりそうな気がして来ました。人形玩具学会なんて学会が、あったのね、知らなかった。

 みなさま、宜しくお願い致します。

香川県の教育はヘン?

2013-05-12 20:39:44 | 国語教育と文学
 
のすけちゃん。

 なんだか久々の(ような気がする)ブログ更新。
 今日は長年抱いてきた、教育への違和感を書いてみます。

 私ずっと、子どもの頃は白髪があったし(いまはほとんどないと思う)、生きたくなかったし、大人になりたくなかったし、随分後ろ向きでした。学校をすごく窮屈に感じてた。なんで生きたくなかったかというと、学校では、生きていることは素晴らしいという価値観をおしつけてくる、というのもひとつだったと思うんだけど。そのくせ多様性なんて欠片も認めない偏見の塊で。

 大学に入ってから、しばらく忘れてたんですが、働くようになって、やっぱり息苦しさを感じるようになりました。
 ただ、ちょっと疑問に感じたのが、香川県人の気質の問題もあるかなあ、と(次の仕事は、変わった子どもたち対象だし、わりとふわふわした感じなので、大丈夫…だといいなと思ってます)。名古屋でいたときは、この種の息苦しさは感じなかったので。

 説明しますね。香川県人の気質って、わりと勤勉だし、けちで、業績主義なんですね。たぶん、貧しいけど、近畿からは近いし、おおきな災害などがなくて、地道に生きてれば小金持ちくらいにはなることができる土地柄だ、ということが影響してるんでしょう。勉強するのも、成績が良くなるとか、よい仕事にありつけるとかじゃないと、しないわけ。だから、いまみたいに学歴と仕事との関係が崩れてしまうと、とたんに統一学力テストの結果が下がったりする。
 教育もだから、論理的な思考を身につけるとか、よりよく生きるため、自由になるため、というような発想は全くなく、ただ成績が良くなること、あるいは「いい子」になることを目的にしている感じでした。

 「こういうことを考えるのは子どもらしくない」という制約がたくさんあって、自由にものを考えられない環境。勉強しても頭が良くなることを禁じられている感じでした。高校時代の私はさして頭良かったとは思わないけど、手当たりしだいでばらばらな感じでしたけど、そういう教育だったので、統一的な思考を持つことが出来なかった。エネルギーありあまった子どもが暴れるのと、たぶん現象としては同じなんだろうな。私は体が動かない方だったので、体の動きを制限されるのは何とも思わなかったけど、思考を制限されるのはストレスでした。おかげで、大学入ってから、一から人格形成やり直さないといけなかったし(随分落ち着きましたが)。

 エリート教育がないんですよね。優等生教育だけで。大学、大学院と県外でいたので思うのですが、旧制高校だったところはふつうもう少し自由だよ、と。
 ときどき、社会学者の本田由紀さんが、受験生時代にいっぱい勉強して、勉強すればよい仕事につけると思ってたけど、そうじゃなかった、そのショックが研究するきっかけだった、というようなことを言ってますが、彼女、香川県の出身。彼女が通ってたのは、私が通ってたところよりもっと上の、県庁所在地にある県下で一番の進学校。そこでもそんなに、ガリ勉な感じなんだなあ、と。
 優等生的な雰囲気は、二番手の高校とかに多いよね、と言われたことがありますが、香川県という地域自体が、二番手気質なのかも…、と思います。

 私の専門は日本文学なので、塾講などでは国語を教えることが多いのですが、国語はとりわけ道徳教育的な傾向が強くて厳しいです。女の人は男の人を愛して、子ども産んで、母性愛を持つものだ、という価値観を暗に前提としている。これがもう…、息が出来ない。

 で、とりたてて結論めいたものもないのですが。


ろこちゃん。早くご飯がほしいのでお茶碗かじってます。
 

鴎外の動物虐待。

2013-05-07 20:47:21 | 書評の試み
 森茉莉の論文は、何とか書き上がりそう。査読があるので通るかどうか分からないし、まだ構成や文章の流れにスムーズじゃない部分があるけど、良い論文になりそうです。

 今日は論文に入れられないことで、ちょっと触れておきたいことがったので、書いておきます。

 森茉莉に、「犬たち」というエッセイがあるのですが。全集だと、3巻に入ってるかな、『記憶の絵』に入ってるエッセイ。
 これが、かなりひどいのです、何がひどいって、鴎外が。つまり鴎外が、子犬を地面にたたきつけた、というエピソードが語られている。私引用するのも心が痛むので引用しないんですが、子犬と一口に言ってもいろいろなんで、どのくらいの大きさの子犬かにもよるんですけど、これは助からんだろう…、という感じで。
 茉莉は、あまりにびっくりしたからその後どうなったかは覚えていない、と書いています。
 これ、笙野頼子は大好きなパッパのためなら、忘れてしまう、とか書いてますけど(『幽界森娘異聞』)、私は必ずしもそうじゃないと思うんですよね。だって、むごい結末を推測させるには、「覚えていない」で充分ですもん。子犬が無事だったら、「覚えていない」なんて書くわけない。
 茉莉は、父親を告発してるんだと思う。聖人面した父親の、残酷な一面を。いちばん弱い存在にストレスのはけ口が向かう、「偉きな」とはとても言いがたい、父親の一面を。
 すごい、ショックだったと思うよ。一瞬のことで反応できなかったにしても、ひょっとしたらこうしていれば、助けられたかもしれない…、とか、絶対思うはず。しかもそれ、自分の父親が危害を加えてるわけで。たぶんすぐには告発できないと思うのですが、だって、告発しても子犬の命は戻ってこないから。それでもそれだけ長い間経って、不意に外面に現れるほど、心の傷は残っていたんだと思う。

 茉莉から父への思いって、書かれているものはやはりフィクションで、ほんとはそんなに、大好き、ってわけでもなかったのかもな、と思います。わだかまりは結構あったと思う。

 ともかく、鴎外ひどいです。



ろこちゃん。ろこちゃんはいつでも熟睡してて、帽子を被せられても、ごらんのとおり。

メモ:歩行と舞踏のあいだで―夏目漱石『それから』から尾崎翠『第七官界彷徨』へ

2013-05-06 16:12:04 | 書評の試み
 その1、その2を書いてからだいぶん時間がたちました。
 ちょっと気ままに書き進めてしまったので、結論部分が書きにくい感じに。ここらで少し仕切りなおしします。

 読みの軸は2つあって、ひとつ目が、その1で書いた花粉のこと。
 『第七官界彷徨』に関しては、なぜコケが花粉を飛ばすのか、という点。
 『それから』に関しても、代助がアマランスを受粉させる場面があるんですが、赤い花は生殖に関わって描かれてる。でも、ヒロインの三千代は子どもを産めないし、心臓病でそもそも生殖行為自体がたぶんできない。冒頭で描かれる「赤ん坊の頭ほど」の大きさの椿の花が、ぼとりと落ちる、というのは、生まれ落ちてすぐに死んでしまった三千代の子どもを象徴する。生殖を象徴する赤い花ではなくて、対照的に描かれる香りの強い白い花が、恋愛物語を展開させる、というようなことを以前論じたことがあります(「生殖の拒絶―『それから』における花のイメージ」『名古屋大学国語国文学』2009年11月)。
 『第七官界彷徨』においても、においは重要な意味を持つし、人間がまっとうに恋愛しない、というのは何度も指摘されてること。

 ふたつ目は、その2で書いた、歩行と彷徨(遊歩)、詩と散文に関わること。
 『それから』においても、代助は頻繁に散歩してるし、「歩行」と「写生」とに関する論文もありました。で、かなり、詩や小説、散文に関するメタフィクショナルな言及が多いんですよね。
 尾崎翠に関しては、その名も「歩行」という題の短編もあることだし、作品のなかで何度も「詩」について言及されるのは、言うまでもないことです。
 ベンヤミンの「遊歩者(フラヌール)」って、みんな大好きみたいなんで、そういう観点からの論文ってわりとあるようなんですが、それと詩=舞踏、散文=歩行というヴァレリーの比喩を結びつけた論文はあまりないみたい。
 大体そもそも、欧文脈においては、靴=言葉を象徴するし、歩くことは書くことを象徴する、という発想があるわけでしょう(だから、真面目に論文書くんであれば、ヴァレリーじゃなくて、もっと漱石が読みそうなものとか、確実に読んでいたと証明できるもののなかで類似の比喩を探すのが筋なんでしょうけど)。
 「足にぴったりあった靴さえあれば、どこへでも歩いていける」で始まる、須賀敦子『ユルスナールの靴』の印象が強すぎるのかな、私。
 日本でも文/踏みという掛詞があるから、全然ないことはないんじゃないのかな。なんだっけ、鳥の足跡を見て文字を思いついた、という中国の故事もあることだし。
 だから、歩行でも舞踏でもない彷徨とか、散歩として、詩でも散文でもない「小説」というジャンルが提起されている、と考えているわけです。

 で、この2つを、どうやって結びつけたらいいんだっけ…、と、いま、思ってます。


のすけちゃん。一昨日の写真。お散歩行ったときにつけた、花のシミがおでこにまだついてる。


しろりんちゃん。母が姉たちのところに行っている時なので、耳を澄ましてる。

弟がさっき帰ってしまったので、のすけちゃんはしょんぼりしてます。


 

犬散歩、ごんちゃん。

2013-05-03 21:51:06 | 犬・猫関連
 今日は、犬の予防接種+フィラリアのお薬を貰うなど、河原でお散歩、
と、てりちゃんとろこちゃんを連れてごんちゃんのところ(訓練所)に行ってきたので、大変疲れました。

 岡山の動物病院のグループで、安価でお薬くれるところが年一回くらい巡回してて、注射も車のなかで打ってくれるので、助かります。ただ、1時間くらいしかやってないので、家の犬の場合数が多いので、2回に分けていかなくてはいけない、その1時間のあいだに2回行く、というのが結構プレッシャーです。
 うちの犬、車で出たら散歩しないと納得しないし(ほんとは、注射したとき運動するのは良くないんですけどね)。だから、第一弾のグループは、早めに出て、先に散歩しとく。あとのグループは、先に注射しに行って、散歩はあと。
 でも今日は、ちょーちゃん、りくちゃん、のすけちゃんの三匹は、ちょっと前に混合ワクチンを打ってたからと言って、狂犬病の予防接種はしてもらえなかった。まあ、狂犬病(今の日本にはない。混合ワクチンのほうは、いちおう流行する可能性がある病気だけど)なんで、何かの機会に獣医さん行ったときにでも打ってもらえばいいけど。

 その後、の犬を連れて行けば、ごんちゃん(人馴れしてないので訓練中。私たちだけが行っても、何だか怖そうにする)もちょっとはリラックスするかなと思って、いちばん扱いやすいてりちゃんとロコちゃんを連れて行きました。
 てりちゃんとはよく遊んでたのに、何でかごんちゃんはてりが怖そうだった。ごんちゃんが怖がるので、テリちゃんも怪訝そうな顔してたけど。ロコちゃんのほうが良かったみたい。
 でも、はじめてごんちゃんを敷地の外に連れ出して、散歩したんですが、てりちゃんとろこちゃんがいたら、だんだん嬉しそうになって、ちゃんとしっぽも持ち上げて歩いてました。

 嫌がるから、あんまりいい写真とれなかった。

 
 ろこちゃん。ずっと固まってました。

 
 ごんちゃん。携帯を向けると怖がる。