松下啓一 自治・政策・まちづくり

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☆空き家問題と法的措置の限界(厚木市)

2016-06-28 | 空き家問題

 空き家問題の協議会があった。メンバーの民生委員の方から、実践を踏まえたバランスの取れた、とてもいい意見があった。

 話の大要は、空き家を悪といい、空き家を権力的に撤去するだけは、問題の本質的解決にならないというものである。空き家にするには、人それぞれの理由があるからで、そうした人の思いに寄り添ってこそ、対策であるという意見でもある。 

 ごみ屋敷などのケースで、時々、テレビで行政が代執行して、ごみをきれいに片づけたという報道がされる。たしかに、きれいになりましたということになるが、その1年後はどうなっているのだろうか。もうごみは出ないのだろうか。

 調べてわけではないので、はっきりと言えないが、またごみ屋敷に戻ったケースもあるのではないだろうか。「他人はごみだと言うけど、どれも有価物。私にとっては宝物なんだ」という人にとって、勧告、命令、代執行という手段は、ごみを集めることをやめる動機付けにはならない。気が付くと、また再び、集め始めるのではないか。

 この問題は、法的手段の限界性というテーマでもある。勧告、命令、代執行という手段では、本当のところは、何も解決していないともいえる。むしろ、ごみ屋敷の家主には認知症を患っていたり、生活意欲が低下したりしている人が多いが、「行政が強引にごみを撤去することで精神的に不安定となり、(ごみの収集が)エスカレートする恐れもある」。強制的な手法は、表面的にはきれいに片付くかもしれないが、当人を傷つけ、さらにごみ屋敷に追い込むことになる。

 空き家問題でも同じことがいえる。空き家の原因は、一様ではないが、他人からは空き家のように見えるが、その人の人生だったり、思い出だったりする。それゆえ、空き家にせざるを得なかった本人の思いに寄り添い、本人との信頼関係を構築しながら、本人自身が、空き家を解消しようという前向きな希望を作っていくことが、真の空き家対策なのだろう。

 もうひとつ、感じたことは、議論の必要性である。実際、議論が足りなかったり、深まっていないと、ついつい一方向の勢いのよい議論が大手をふるうことになる(イギリスの国民投票はその例である)。今回は、議論が進んできたので、こうした本質を突いた意見も出るようになる。熟議を通してこそ、ものの本質に到達できるのだろう。

 本人に寄り添うことが、空き家問題の解決方法の一つとすると、それには行政だけではとても対応できないということである。地域やNPO、あるいは企業などが、それぞれが持つ知識、情報、経験を持ち寄り、その連携の中において、本人を支え、後押しすることが大事となる。

 ひとつ突き抜けたような気がした。同時に、空き家問題の本を書きたくなった。

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