松下啓一 自治・政策・まちづくり

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☆氏名公表・政策法務の観点から⑧中間メモ

2020-01-16 | 氏名公表
 途中であるが、忘れないうちに書いておこう。

 いくつかの判決を見ても、「そりゃ、そうだよな」というのが、印象である。

 条例改正も処分性がありとされた保育園の条例改正の事例も、契約しておいて、途中から、「あれはなかった」というケースであり、「それはないよな」という事例である。

 行政指導が処分性ありとされた事例も、これに従わなければ、結局、病院の経営は成り立たないし、地元の医師会が、病院を作らせないように、いわば意地悪しているようにも見えるケースなので、「そこまではやりすぎ」と、思える事例である。

 だから、基本原則を多少変更しても、取消訴訟の対象としようという判断になる。理論から考えるのではなくて、実際から考えるという、いわば自然な選択なのだろう。要するに、本当のところは、裁判官は、まず、素朴な価値判断があり、それに客観性を持たせるために、基本理論に膨らみを持たせて、説明しているので、それを学問世界が後付をしているという、私の意見は、シニカルに過ぎようか。

 逆に言えば、「これは氏名公表されても仕方がないよな」というケースについて、きちんと手続きを踏んで、氏名公表すれば、「そこまではやりすぎだ」という声にならず、結局、裁判になっても、負けることはないということである。

 考えてみると、当たり前のことで、当たり前に問題意識を持ち、当たり前に手続きを整備すればいいという、当たり前のことになる。

 この問題の契機となった、ヘイト条例で言えば、「○○人は、ゴキブリだ」みたいな発言は、誰しも眉をひそめるし、それをネットで、匿名で言うことに対して、「卑怯者だ」と誰しも感じるし、その制裁として氏名公表されても、みんな「自業自得だ」と思うだろう。それをきちんと手続きを踏んで行えば、「表現の自由だ」という議論は、空虚に響いてしまう。

 立法事実をきちんと踏まえ、手続きをきちんと踏まえるという、条例づくりの基本を、読み続けている処分性の判例から、あらためて確認することになった。

 
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