妹からメールでなにやら言って来た。
妹から時々メールが来る。
妹も我が家のカミさんより4ヶ月くらい早く肺ガンの手術を名古屋の病院で受けている。
今はプールで水中歩きをしているそうだ。でも疲れるので余り長い時間は出来ないと言っている。
肺ガンの手術後の情報はカミさんにとっては貴重な情報であり何かと電話で聞いたりしているようだ。
一昨日か?この妹から来たメールでは姉から手紙が来て、その手紙に、この一月で80歳になったと書いてあったとか・・・・。
そして、その手紙には
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姉はあの広島の原爆の被爆者である。
昭和20年8月6日は姉は女学校の3年生の時で夏休みはなくて、動員で広島貯金局の3階であの時間 既に執務をしていて、なにやら光って窓ガラスが飛び散り、みんないっせいに階段に走ったとか?
私はその姉を探しに祖母と二人で岩国から8月8日の日の早朝に岩国駅から広島の姉の学校と寄宿舎や聞いていた動員先の千田町の貯金局まで行った。
広島駅から川沿いに、まっすぐに最初に行った姉の学校には防火壁が不気味に二つ立っていて周りは残骸ひとつない綺麗な焼け野原であった。
勿論 寄宿舎は跡形もなかった。傍に防空壕があり、その中には祖母が入り、防空壕から祖母が出てくるや「osamu は入るな!」と何を見たのか?そのまま貯金局に向かったのだ。
貯金局の建物は健在で、その3階は誰もいなく書類が床に散らばって、窓ガラスはみんな壊れて破片がこれも床に散らばっていた。
階段の壁には無数の血筋がありサンダルや靴も散らばっていて、そこかしこの踏み面(フミヅラ)に落ちていた。
貯金局では姉は窓から4~5m 離れた場所に座っていたとか?窓辺の方はかなり怪我や被爆したのでは?とも聞いたことがあるが、なにせ、もう半世紀以上も前のことである。
その後 昔 住んでいた大手町に姉を探しに行く。これまた一帯は綺麗に焼けた焼け野原でありアチコチに防火用水の箱(?)が目立っていて、人っ子一人としていない。
黒く焦げた市役所の建物と物凄く暑い日だったのが印象深かった。
市役所の前にあった私が小学校3年生まで通った大手町小学校があったところも綺麗な焼け野原であった。その日(8日)は姉は見つからず、
「明日また来て探して見よう」と祖母と、そのまま電車通りを歩き、紙屋町に出て、そこから電車通りに従い広島駅に戻った。
*紙屋町は爆心地の直ぐ近くである。
その姉が只管(ヒタスラ)歩いて岩国の祖父母のところに帰ったのは9日の早朝と聞いている。セーラー服で、もんぺ姿の姉はハダシだったとか?服は血にまみれ、その足の足裏はガラスの破片がこびり付き祖母が毛抜きでガラスの破片を一本づつ全て抜いたとか?
よくも助かったものと祖母も泣いて居たのはよく憶えている。
白いセーラー服も、もんぺも洗った時に何故か?小さく千切れてしまったとか?祖母が不思議がっていた・・・・。
私はその日(9日)も早朝から姉を探しに祖母と広島に行く予定だったのだ・・。
戦後 山陽本線で列車通学になり姉の友人とも時に話をする機会もあり、その友人の方には頭をタオルで包んだ方も多かった。
被爆で頭の毛髪がみな抜けたのだった。
今 現在 姉の友達の消息は分からないようだ・・・。
以前 と言ってもかなり前だが○○さん(姉の友人)は元気で何処そこに居るとか聞いたことはあるが原爆のことは一切話さないので今もって私には当時の姉のことはよく分からない。
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妹からの姉の消息の話の追記に妹の孫の話も写真つきで書いてあった。
今 小学校の一年生で地元の新聞にその“つづり方(?)“が掲載されたのである。
厚かましくブログに載せる。
下記がその妹の孫の記事である ↓
あそこが痛い!ここが痛い!の記事よりはこのほうがチトましか????
きょうも呑気な爺である。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
配信されたデジブックから富士山の景色を拝借 ↓
http://www.digibook.net/?entrycode=startViewer&digibookid=7904a1b3909d9a81ad6685250e1a4a0b&shelfuuid=8b5df1b8-6d89-7294-05a1-08233f20c2c4
妹から時々メールが来る。
妹も我が家のカミさんより4ヶ月くらい早く肺ガンの手術を名古屋の病院で受けている。
今はプールで水中歩きをしているそうだ。でも疲れるので余り長い時間は出来ないと言っている。
肺ガンの手術後の情報はカミさんにとっては貴重な情報であり何かと電話で聞いたりしているようだ。
一昨日か?この妹から来たメールでは姉から手紙が来て、その手紙に、この一月で80歳になったと書いてあったとか・・・・。
そして、その手紙には
「よくもコレまで長生きができたものだ!」
とも感想が・・・。//////////////////////////////////////////
姉はあの広島の原爆の被爆者である。
昭和20年8月6日は姉は女学校の3年生の時で夏休みはなくて、動員で広島貯金局の3階であの時間 既に執務をしていて、なにやら光って窓ガラスが飛び散り、みんないっせいに階段に走ったとか?
私はその姉を探しに祖母と二人で岩国から8月8日の日の早朝に岩国駅から広島の姉の学校と寄宿舎や聞いていた動員先の千田町の貯金局まで行った。
広島駅から川沿いに、まっすぐに最初に行った姉の学校には防火壁が不気味に二つ立っていて周りは残骸ひとつない綺麗な焼け野原であった。
勿論 寄宿舎は跡形もなかった。傍に防空壕があり、その中には祖母が入り、防空壕から祖母が出てくるや「osamu は入るな!」と何を見たのか?そのまま貯金局に向かったのだ。
貯金局の建物は健在で、その3階は誰もいなく書類が床に散らばって、窓ガラスはみんな壊れて破片がこれも床に散らばっていた。
階段の壁には無数の血筋がありサンダルや靴も散らばっていて、そこかしこの踏み面(フミヅラ)に落ちていた。
貯金局では姉は窓から4~5m 離れた場所に座っていたとか?窓辺の方はかなり怪我や被爆したのでは?とも聞いたことがあるが、なにせ、もう半世紀以上も前のことである。
その後 昔 住んでいた大手町に姉を探しに行く。これまた一帯は綺麗に焼けた焼け野原でありアチコチに防火用水の箱(?)が目立っていて、人っ子一人としていない。
黒く焦げた市役所の建物と物凄く暑い日だったのが印象深かった。
市役所の前にあった私が小学校3年生まで通った大手町小学校があったところも綺麗な焼け野原であった。その日(8日)は姉は見つからず、
「明日また来て探して見よう」と祖母と、そのまま電車通りを歩き、紙屋町に出て、そこから電車通りに従い広島駅に戻った。
*紙屋町は爆心地の直ぐ近くである。
その姉が只管(ヒタスラ)歩いて岩国の祖父母のところに帰ったのは9日の早朝と聞いている。セーラー服で、もんぺ姿の姉はハダシだったとか?服は血にまみれ、その足の足裏はガラスの破片がこびり付き祖母が毛抜きでガラスの破片を一本づつ全て抜いたとか?
よくも助かったものと祖母も泣いて居たのはよく憶えている。
白いセーラー服も、もんぺも洗った時に何故か?小さく千切れてしまったとか?祖母が不思議がっていた・・・・。
私はその日(9日)も早朝から姉を探しに祖母と広島に行く予定だったのだ・・。
戦後 山陽本線で列車通学になり姉の友人とも時に話をする機会もあり、その友人の方には頭をタオルで包んだ方も多かった。
被爆で頭の毛髪がみな抜けたのだった。
今 現在 姉の友達の消息は分からないようだ・・・。
以前 と言ってもかなり前だが○○さん(姉の友人)は元気で何処そこに居るとか聞いたことはあるが原爆のことは一切話さないので今もって私には当時の姉のことはよく分からない。
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妹からの姉の消息の話の追記に妹の孫の話も写真つきで書いてあった。
今 小学校の一年生で地元の新聞にその“つづり方(?)“が掲載されたのである。
厚かましくブログに載せる。
下記がその妹の孫の記事である ↓
あそこが痛い!ここが痛い!の記事よりはこのほうがチトましか????
きょうも呑気な爺である。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
配信されたデジブックから富士山の景色を拝借 ↓
http://www.digibook.net/?entrycode=startViewer&digibookid=7904a1b3909d9a81ad6685250e1a4a0b&shelfuuid=8b5df1b8-6d89-7294-05a1-08233f20c2c4
しょう。永久に忘れる事は不可能な程に・・・。
今更、思い出させようとする事がどんなに本人にとって酷な事で有るか・・・・。そーっとして置いて上げましょう。
きょうは大変寒い日でした。コレからが本物の冬になりそうです。暖かくなるのは5月からでしょうね。桜開花も例年より半月からヒトツキ早くなりそうです。