以前、コメントで「マヨさんはなぜ韓半島と言って朝鮮半島と言わないのですか?」との質問を受けた。
私は、朝鮮族は主に満州周辺、いわゆる遼東(楽浪)近辺を中心に活動していた民族だと認識しているため、朝鮮というと満州しか思い浮かばない。だから朝鮮半島といういい方は自分としては納得できない。だから使わないのですよ、と説明した。
渤海国は高句麗の後継国との認識が多いようであるが、これは根拠がない。ただし、住民はほぼ同じようなものである。つまり、支配層は変わっても、人民の移動というのはそれほどあるはずがない。
当時の国の概念は国境を設け、首都を定め周辺国と条約を結ぶという現在の国家概念とは違う。ある部族が突然やってきて王城を取り囲み、降伏させるか亡ぼすかであり、占領した王が旗を立てたとき国家が出来るのである。さらに、各地に使者を送り、国としての存在を認めさせるのである。つまり、国は常に移動していくのである。しかし、住民特に農耕部族は動かないものだ。
現在、中国の吉林省、遼寧省には朝鮮部族がたくさん暮らしている。これが北朝鮮と同じ部族だとは誰が証明できるのだろう。
北朝鮮と中国領の間には大きな隔たり、即ち鴨緑江が存在し、朝鮮戦争のとき、北朝鮮へ進出した中国軍に対し、マッカーサーはこの川にかかる橋を爆撃しようとして解任された。仮にこの橋を爆撃すれば中国軍が全滅するのは間違いなく、現在の歴史は大幅に書き換えることになっただろう。この話は二十世紀のファウストで書かれているように、朝鮮戦争が八百長戦争だった確かな証拠である。八百長の話はここでは関係ない、問題は橋である。二十世紀でも重要だったこの大河に掛かる橋が古代にも存在したのかが大いに疑問なのである。私の解釈では、そう簡単にこの大河を渡れるわけがないという認識である。つまり、この川の両側にまったく違う領域であり、民族的にも混ざらないようお互い努力(紛争)した地域だと思うのだ。
さて、この北朝鮮地域は高句麗が亡びた後、統一新羅の一部となり、新羅の武将がそこへ高麗国を建国した。つまり、高句麗と高麗は直接の後継国とはいえない。その高麗の首都が平壌であるからと言って、高句麗の首都、平壌が同じところにあったとはとても思えないのだ。教科書では簡単に高句麗が北朝鮮地域にまで進出していたように書いているが、そこには倭国があったのだからそう簡単に進出できるわけないだろう。
倭国が現在の北朝鮮にあり、そこに倭人がいたとすれば、今もそこには倭人が住んでいる。そしてその倭人の指導者が九州から列島に侵略し、列島にすでに進出していた満州人(高句麗人・新羅人)と覇権を争ったのである。
つまり、日本の西部は倭人が多く、東部は満州人が多いのである。日本がなぜ韓国を併合し、植民地化するのではなく、日本の一部にしようとしたのかこれでわかるであろう。しかし、日本の中も二分されていたように、韓国人も同じように日本人を歓迎する部族と反対する部族がいたのである。
難しいね、また続きを書くつもりです、お楽しみに。
私は、朝鮮族は主に満州周辺、いわゆる遼東(楽浪)近辺を中心に活動していた民族だと認識しているため、朝鮮というと満州しか思い浮かばない。だから朝鮮半島といういい方は自分としては納得できない。だから使わないのですよ、と説明した。
渤海国は高句麗の後継国との認識が多いようであるが、これは根拠がない。ただし、住民はほぼ同じようなものである。つまり、支配層は変わっても、人民の移動というのはそれほどあるはずがない。
当時の国の概念は国境を設け、首都を定め周辺国と条約を結ぶという現在の国家概念とは違う。ある部族が突然やってきて王城を取り囲み、降伏させるか亡ぼすかであり、占領した王が旗を立てたとき国家が出来るのである。さらに、各地に使者を送り、国としての存在を認めさせるのである。つまり、国は常に移動していくのである。しかし、住民特に農耕部族は動かないものだ。
現在、中国の吉林省、遼寧省には朝鮮部族がたくさん暮らしている。これが北朝鮮と同じ部族だとは誰が証明できるのだろう。
北朝鮮と中国領の間には大きな隔たり、即ち鴨緑江が存在し、朝鮮戦争のとき、北朝鮮へ進出した中国軍に対し、マッカーサーはこの川にかかる橋を爆撃しようとして解任された。仮にこの橋を爆撃すれば中国軍が全滅するのは間違いなく、現在の歴史は大幅に書き換えることになっただろう。この話は二十世紀のファウストで書かれているように、朝鮮戦争が八百長戦争だった確かな証拠である。八百長の話はここでは関係ない、問題は橋である。二十世紀でも重要だったこの大河に掛かる橋が古代にも存在したのかが大いに疑問なのである。私の解釈では、そう簡単にこの大河を渡れるわけがないという認識である。つまり、この川の両側にまったく違う領域であり、民族的にも混ざらないようお互い努力(紛争)した地域だと思うのだ。
さて、この北朝鮮地域は高句麗が亡びた後、統一新羅の一部となり、新羅の武将がそこへ高麗国を建国した。つまり、高句麗と高麗は直接の後継国とはいえない。その高麗の首都が平壌であるからと言って、高句麗の首都、平壌が同じところにあったとはとても思えないのだ。教科書では簡単に高句麗が北朝鮮地域にまで進出していたように書いているが、そこには倭国があったのだからそう簡単に進出できるわけないだろう。
倭国が現在の北朝鮮にあり、そこに倭人がいたとすれば、今もそこには倭人が住んでいる。そしてその倭人の指導者が九州から列島に侵略し、列島にすでに進出していた満州人(高句麗人・新羅人)と覇権を争ったのである。
つまり、日本の西部は倭人が多く、東部は満州人が多いのである。日本がなぜ韓国を併合し、植民地化するのではなく、日本の一部にしようとしたのかこれでわかるであろう。しかし、日本の中も二分されていたように、韓国人も同じように日本人を歓迎する部族と反対する部族がいたのである。
難しいね、また続きを書くつもりです、お楽しみに。