うおーーーー!すごーーーい!
乗っ取り、良くない!
昨日メッセンジャーがやられました。賢明な友人達のネットワークでなんとか収束。ムムム、乗っ取り駄目!絶対!
なんだかとても良くしみる話ですね。「虚礼」かあ。いい機会なのかもしれませんね。
生島ヒロシ氏「コロナは本当に大事な付き合いを考える好機」
https://news.goo.ne.jp/article/postseven/entertainment/postseven-1577102
https://news.goo.ne.jp/article/postseven/entertainment/postseven-1577102
昔、住んでた部屋が「ガス爆発」させられ、命からがら逃げ出したものの、部屋がなくなったとき、私の部屋は「全焼」で吹き抜けになってました。2階の部屋でしたので、1階から見上げると、ロフトが消えたみたいに「部屋ごと焼失」していました。
その時に「無くして困ったもの」が半分ありました。手紙や映画フィルム、卒業アルバム、フランスメトロで使われたポスターなどは、無くして悲しかったものです。
一方「燃えてくれてよかったもの」も半分、あったのです。人生には「捨てるに捨てられず」なものが、持ってるもののうち、半分はそれだったことに気づきました。
「火事でなくなる」という、避けようのないもので無くなってくれることが、一番の供養になるようなものたちでした。不思議な感覚です。
生島さんの記事を読んでそれを思い出しました。
コロナ禍はたしかに悲惨なものですが、「自宅で一緒に過ごす時間」だったり、「仕事や学校をを長期間休む事」だったり、「人に会わないで済ます事」なんていうのは、コロナ禍でもこない限りは、日本人には到底できなかったことでした。
大きいところに、多くの人が集って、声を掛け合って、助け合っているのが当たり前だったのが、「そうするのが怖くなる」理由として、突然生まれたのです。
不思議なものです。「当たり前」だったものが、見えないナニカで、くるりと向きを返したのです。なーんだ、当たり前なんて、こんなもんだったんだと、知れてよかったです。
ある意味、なんでもありなんですねって、思える良い機会にもなりました。