聖書物語の中に王と認められるためには預言者から油を頭から注がれることが必要と書かれていた。
何で? 気持ち悪~。そう思いませんか?
僕の最も嫌だな~と感じることは思いがけず蜘蛛の巣が顔にかかったり海で寝転んだりしたとき裸の身体に砂がかかったり
油っぽいものが肌にべっとり付いた時の感触なんです。
まして頭から油を注がれるなんて考えただけでもぞっとする。絶対王様にはなりたくない!
「 ば~か なれる訳ないじゃん。」 外野席
はじめての聖書物語の中にその理由が書いてなかったのでネットで調べてみて長年の疑問に答えを見つけてほっとしました。同じ疑問を抱えていた方のために
参考のため記事をそのままコピペいたしますね。
以下 コピペ
油を注ぐという行動は元々羊飼いがする物でした。羊の毛の中にシラミなどの虫が入ってしまう事がしばしばあり、これらの虫は羊の耳に入り込んで羊の死因となる事があるのです。ですから、古代の羊飼いたちは羊の頭に油を注ぎ、虫が油で滑るようにして虫が羊の耳に入る事を予防していました。これから油を注ぐという行動は祝福、守りと力を与える事の象徴となったのです。
新約聖書のギリシャ語で油を注ぐという動詞はクリオであり、「油を擦り付ける」という意味があり、また「宗教的役割を与え、とり分ける」というニュアンスがあります。もう一つの単語はアレイフォという物で、これもまた「油を注ぐ」という意味でした。聖書の時代に人々が油を注がれるとそれは神の祝福や召しを示していました(出エジプト29:7; 40:9; II列王記9:6; 伝道者9:8; ヤコブ5:14)。人々は王、預言者や建築家など、特別な役割や目的のために油を注がれたのです。現代に油を注ぐ事は決して間違ってはいませんが、誰かに油を注ぐ際に、その理由が聖書のそれと同じであるように気をつける必要があります。油を注ぐ事は「魔法の薬」のようにみなされるべきではありません。油を注ぐという行動自体には何も力はありませんし、特別な目的のために人に油を注ぐ事ができるのは神のみであり、油を注ぐという行動は神に働きを象徴しているだけなのです。
油を注がれた者には「選ばれた者」という意味もあります。聖書にはイエスキリストは福音を広め、罪に囚われた人々を解放するために、神によって聖霊をもって油注がれた者であると書いてあります(ルカ4:18-19; 使徒10:38)。キリストはこの世を去ってから、聖霊を下さいました(ヨハネ14:16)。よって全てのキリスト者は神によって油注がれた者であり、御国を建設するという目的をもっているのです(Iヨハネ2:20)。「私たちをあなたがたといっしょにキリストのうちに堅く保ち、私たちに油をそそがれた方は神です。
神はまた、確認の印を私たちに押し、保証として、御霊を私たちの心に与えてくださいました。」(IIコリント1:21-22)
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新約聖書のギリシャ語で油を注ぐという動詞はクリオであり、「油を擦り付ける」という意味があり、また「宗教的役割を与え、とり分ける」というニュアンスがあります。もう一つの単語はアレイフォという物で、これもまた「油を注ぐ」という意味でした。聖書の時代に人々が油を注がれるとそれは神の祝福や召しを示していました(出エジプト29:7; 40:9; II列王記9:6; 伝道者9:8; ヤコブ5:14)。人々は王、預言者や建築家など、特別な役割や目的のために油を注がれたのです。現代に油を注ぐ事は決して間違ってはいませんが、誰かに油を注ぐ際に、その理由が聖書のそれと同じであるように気をつける必要があります。油を注ぐ事は「魔法の薬」のようにみなされるべきではありません。油を注ぐという行動自体には何も力はありませんし、特別な目的のために人に油を注ぐ事ができるのは神のみであり、油を注ぐという行動は神に働きを象徴しているだけなのです。
油を注がれた者には「選ばれた者」という意味もあります。聖書にはイエスキリストは福音を広め、罪に囚われた人々を解放するために、神によって聖霊をもって油注がれた者であると書いてあります(ルカ4:18-19; 使徒10:38)。キリストはこの世を去ってから、聖霊を下さいました(ヨハネ14:16)。よって全てのキリスト者は神によって油注がれた者であり、御国を建設するという目的をもっているのです(Iヨハネ2:20)。「私たちをあなたがたといっしょにキリストのうちに堅く保ち、私たちに油をそそがれた方は神です。
神はまた、確認の印を私たちに押し、保証として、御霊を私たちの心に与えてくださいました。」(IIコリント1:21-22)
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