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絵じゃないかおじさんぐるーぷ
改題版
* 水中の三室のセンティ
明星山 三室戸寺 10
ゴエーカ;
よもすがら つきをみむろと わけゆけば
うじのかわせに たつはしらなみ
三室のセンティは、水中が好きだそうです。
澄んだ水の底から空を見上げると、
キラキラと輝いたり、
赤く染まったり、
緑の葉が陰を落としたり、
始終変化に富んだ世界を、楽しませてくれるのです。
夜は夜で、
星や月が、いろいろな形に変わり、語りかけてくれます。
嵐の日、雨の日にも、水面の騒めきを見上げていると、
静と動の、微妙な組合せが、感じられて、趣があります。
時おり川の魚も遊びに来たりして、
結構、時間潰しも出来るそうです。
センティは、そんな気ままな生活を送っていたのでしたが、
とうとう人間に見つかって、
三室戸寺に、連れていかれてしまいました。
頼まれたら、断り切れないのが、
カンノンはんの性分、
それも運命と諦めて、
今では、すっかり観念しているようです。
まあ、人前に顔を見せることはめったにないので、
時には、お忍びで宇治川の清流で、
水中瞑想に耽っているようでありますが。
本堂の境内は、小ぢんまりとした牧場を、
思わせるように、緑の芝生で覆われています。
牧場と言えば、牛が出てこなくてはなりますまい。
これは、京都府が山城の国と呼ばれていたぐらいの、
昔の話であります。
宇治の里に、
富やんという、貧乏たれのドン百姓がおりました。
ドン百姓は貧乏たれと、相場が決まっております。
最近の土地神話は、都市の近郊で、
長いドン百姓を続けてきた人々に、
同情した土地の神さんの悪戯が、
生んだものでありましょうか。
「あん人たちゃ、ヨカ衆」と、
泥田に這いつくばって、
着飾って道ゆく人を見上げ続けてきた、
農民の怨念を、なだめてやっているのでありましょうか?
それにしても、都市近郊のドン百姓どんだけに、
いい思いをさせるのは、納得いきませんのですが・・・
元来、この国は、ドン百姓あふれる国なのであります。
人口の8~9割が、ドン百姓であった時代も長いのであります。
現代の東京は、大都会ではありましょうが、
そこに住む人の姓を、連ねてみてご覧なさい。
このことは、一発で自覚出来るでありましょう。
正月や盆の民族の小移動にも現われていますですね。
この国の人々は、
まだまだドン百姓の泥臭さが、抜け切らないのです。
けれども、それはそれでいいんじゃないのでしょうか。
ただ、それをすっかり忘れて都会人ぶる姿には、
こちょっと、チヨッカイをかけてみたくなるのです。
話がそれてきましたが、牛の話に戻ることにしましょう。
ドン百姓にとって、牛は利用価値が大いにありました。
農作業には使えるし、
荷車などの動力源にはなるし、
肉や皮は売れるし、
牡ならば種牛、牝ならば小牛が生まれるからです。
といっても、牛の肉は、
食べる習慣が定着していなかったそうですし、
この国の仏教は肉食を忌み嫌わされていたので、
食っていたかどうかは、定かではありません。
まあ食っていた人もいたでしょうし、
味を知らないままの人もいたのでしょう。
その頃の統計資料が無いものですから、
そんなところで、止めて置きましょう。
ドン百姓の富やんは、
境内の牧場のような草に目をつけました。
まさか、お寺の境内の草を食べさせるなどという、
畏れ多いことを考える人は、居なかったのでありましょう。
お寺はんにしても、草を刈る手間は大変ですから、
富やんが小牛を連れてきて、
草を食べさせていても黙認したようです。
この小牛は、日が満たずに生まれたものですから、
弱々しかったのです。
貧乏タレの富やんに買える小牛といえば、
そんなものだったのかもわかりません。
富やんにしても、お寺の草は食わせるのは、
仕事の手抜きにもなるのです。
牛の餌の草を刈るのも、容易なことではありません。
毎日毎日のことですから、手間がかかるのです。
草刈りといえども、近所の牛飼いの家との競争にもなります。
それが、寺にゆけば草が、
山ほどあり刈る手間が省けるので、大助かりとなるのです。
で、自分は何をするか。
ただ見ていればいいのですから、
こんな楽なことはありません。
いい草は食えれる。
毎日三室戸寺まで往復する。
そんなわけですから、弱々しい牛といえども、
健康になってまいります。
いい草ばかり、
たくさん一匹で鬼食いしたためでありましょうか。
不思議なことが起こりました。
牛の胃は、4室あるといわれています。
こぶ胃、蜂の巣胃、重弁胃、皺胃の4つを使って、
反芻するらしいのですが、
その蜂の巣胃の底に、
牛玉と呼ばれる草のエキスから、
出来た玉が大きく育ったのです。
そして、ある日のこと、小牛は苦しみ倒して、
その玉を吐き出したそうであります。
苦しさのため、目から大粒の涙を、
ぽたぽたと流し、
モーモーと鳴き喚き散らしたそうです。
この玉が出るとき、
小牛の胃と食道のアンバランスが治りました。
弱々しさは胃から来ることも多いので、
この小牛の弱々しさも、
きっとそこから来ていたのでしょう。
このことを境にして、小牛はどんどん大きくなって、
闘牛が、できるような牛に、成長したということです。
富やんは、その牛に闘牛させて勝ち、
貰った賞金を元手に牛の仲買いを始め、
宇治の里1番の金持ちになったようです。
三室戸寺には、
牛玉を体内に収めた牛の木造がありますが、
これは、富やんが作らせたということであります。
この項おわり