最近は自ら編集をする監督が増えている。
劇映画の代表格は北野武監督。
ドキュメンタリー系の監督も自ら編集をする。
PR映像もフィルムの時代は編集担当がいたが
ビデオになってからは監督が兼務する。
しかし、あくまでも予算の都合上兼務しているだけで
能力面からではない。
編集とは捨てることだ。捨てることで研ぎ澄まされる。
しかし台本を読み込み、撮影したものを
そんなに簡単に捨てられない。
もし捨てたとしても単に切るだけでは
そこまで積み上げたリズムが完全に崩れる。
切ったら切ったでリズムの再構築が必要になる。
「再構築したからって変わってないよ」と
言われてしまえば、それまで。
違和感ないよう再構築したからこそ「変ってない」と感じるのだ。
微妙な辻褄合わせができるか否か。プロの腕が生きる。
視聴者は私達作り手の思うほど真剣に映像を見ているわけではない。
だって無理矢理見せられているのだから。
そんなヤカラに見せて納得させるにはどうすればいいのかを
作り手は考えなければならない。それがPR映像監督の仕事だ。
▲奇策の名人「真田幸村」
PR映像はいつもスポンサーの大人の事情で
「カットしてください」の一言で改竄を余儀なくされる。
スポンサーがお金を出しているので
それに応えるのも我々の仕事ではある。
しかしスポンサーが作品を考えて
指示を出しているのかといえば、そうでもない。
フィルム世代は編集手直しに時間とお金がかかることを
知っているので、その戦い方を身に付けていた。
その方法は監督ごとに違うが、身に付けている者のみが
監督になれたし、監督としてプロデューサーに認められていた。
スポンサー・関係者が何十人も集まって
初号試写をすると様々な意見が出る。
それを全て受け入れると滅茶苦茶になることは誰でも想像できる。
なのにスポンサーが一人の場合は何でも受け入れてしまう。
ご贔屓さんならなおのこと。「お得意様の意向は第一」と
若いプロデューサーが考えるのも無理はない。
そもそも何十人も集まる試写と、一人試写では対峙のし方も異なる。
ビデオになってからの世代は、簡単に編集手直しができることから
スポンサーの指示があれば、作品として成り立つのかを考えず
修正を平気で受け入れる。
スポンサーの意向は2つ。
ひとつは切る(カットする)。
もうひとつは補足説明の文字を入れる。
たいていはこの2つだ。
何故なら撮った全てを見ていないので付け足すことができないのだ。
しかしスポンサーの中には
「撮ったカットを全て見たい」という猛者もいる。
こうなると戦い方は全く違ってくるが
いずれにしても安易に受け入れると厄介なことになる。
抵抗する方法はあるのだが、たいていの作り手は
面倒なのと予算と時間から抵抗なしに受け入れる。
まだ悔しいとか、変だとか思うならマシだ。
「スポンサーの意向です」 の一言でバッサリ切る。
補足の文字を入れる。
スポンサーが出す指示に、本当に切ってもつながるか?
そこだけ補足説明の文字を入れて違和感はないのか?
補足の文字に目が行き厄介なことにならないのか?
さすがに「これでいいのだろうか?」と感じるスタッフもいるだろうが
スポンサーには抵抗することができない。
こうして私だけ抵抗しているだけで、
一人レジスタンスはあっけなく終わってしまう。
ビジネスだから大人になってスポンサーの意向を第一にすべき???
ならば私達の存在意義はなんなのか?
かって私はこのブログに「妥協と迎合は異なもの」と書いたが
今年も社内スタッフがまだまだ作り手として
成長していないことを思い知らされた。
試写会は重要だ。話せばわかることもある。
データのやり取り、メールのやり取りで「スポンサーの意向です」。
抵抗なきモノづくりでよいのか?
私は社内外の作り手に問いたい。
切ったら切ったで、後味の悪いものにするな。
切らないことも、切ることも編集だ。
編集とは捨てることだ。
しかし意思をもって捨てなければならない。
愛を持って捨てなければならない。
時には大人の事情も鑑み捨てることも出てくるが
妥協と迎合は違うと噛み締めて涙して捨てること。
全てはプロとしての気概と勇気と能力があってこそ
捨てることができる。
まさに編集とは恋愛であり、格闘技だ。
▲赤穂浪士が奉られた大石神社。最強のワンチームだ
劇映画の代表格は北野武監督。
ドキュメンタリー系の監督も自ら編集をする。
PR映像もフィルムの時代は編集担当がいたが
ビデオになってからは監督が兼務する。
しかし、あくまでも予算の都合上兼務しているだけで
能力面からではない。
編集とは捨てることだ。捨てることで研ぎ澄まされる。
しかし台本を読み込み、撮影したものを
そんなに簡単に捨てられない。
もし捨てたとしても単に切るだけでは
そこまで積み上げたリズムが完全に崩れる。
切ったら切ったでリズムの再構築が必要になる。
「再構築したからって変わってないよ」と
言われてしまえば、それまで。
違和感ないよう再構築したからこそ「変ってない」と感じるのだ。
微妙な辻褄合わせができるか否か。プロの腕が生きる。
視聴者は私達作り手の思うほど真剣に映像を見ているわけではない。
だって無理矢理見せられているのだから。
そんなヤカラに見せて納得させるにはどうすればいいのかを
作り手は考えなければならない。それがPR映像監督の仕事だ。
▲奇策の名人「真田幸村」
PR映像はいつもスポンサーの大人の事情で
「カットしてください」の一言で改竄を余儀なくされる。
スポンサーがお金を出しているので
それに応えるのも我々の仕事ではある。
しかしスポンサーが作品を考えて
指示を出しているのかといえば、そうでもない。
フィルム世代は編集手直しに時間とお金がかかることを
知っているので、その戦い方を身に付けていた。
その方法は監督ごとに違うが、身に付けている者のみが
監督になれたし、監督としてプロデューサーに認められていた。
スポンサー・関係者が何十人も集まって
初号試写をすると様々な意見が出る。
それを全て受け入れると滅茶苦茶になることは誰でも想像できる。
なのにスポンサーが一人の場合は何でも受け入れてしまう。
ご贔屓さんならなおのこと。「お得意様の意向は第一」と
若いプロデューサーが考えるのも無理はない。
そもそも何十人も集まる試写と、一人試写では対峙のし方も異なる。
ビデオになってからの世代は、簡単に編集手直しができることから
スポンサーの指示があれば、作品として成り立つのかを考えず
修正を平気で受け入れる。
スポンサーの意向は2つ。
ひとつは切る(カットする)。
もうひとつは補足説明の文字を入れる。
たいていはこの2つだ。
何故なら撮った全てを見ていないので付け足すことができないのだ。
しかしスポンサーの中には
「撮ったカットを全て見たい」という猛者もいる。
こうなると戦い方は全く違ってくるが
いずれにしても安易に受け入れると厄介なことになる。
抵抗する方法はあるのだが、たいていの作り手は
面倒なのと予算と時間から抵抗なしに受け入れる。
まだ悔しいとか、変だとか思うならマシだ。
「スポンサーの意向です」 の一言でバッサリ切る。
補足の文字を入れる。
スポンサーが出す指示に、本当に切ってもつながるか?
そこだけ補足説明の文字を入れて違和感はないのか?
補足の文字に目が行き厄介なことにならないのか?
さすがに「これでいいのだろうか?」と感じるスタッフもいるだろうが
スポンサーには抵抗することができない。
こうして私だけ抵抗しているだけで、
一人レジスタンスはあっけなく終わってしまう。
ビジネスだから大人になってスポンサーの意向を第一にすべき???
ならば私達の存在意義はなんなのか?
かって私はこのブログに「妥協と迎合は異なもの」と書いたが
今年も社内スタッフがまだまだ作り手として
成長していないことを思い知らされた。
試写会は重要だ。話せばわかることもある。
データのやり取り、メールのやり取りで「スポンサーの意向です」。
抵抗なきモノづくりでよいのか?
私は社内外の作り手に問いたい。
切ったら切ったで、後味の悪いものにするな。
切らないことも、切ることも編集だ。
編集とは捨てることだ。
しかし意思をもって捨てなければならない。
愛を持って捨てなければならない。
時には大人の事情も鑑み捨てることも出てくるが
妥協と迎合は違うと噛み締めて涙して捨てること。
全てはプロとしての気概と勇気と能力があってこそ
捨てることができる。
まさに編集とは恋愛であり、格闘技だ。
▲赤穂浪士が奉られた大石神社。最強のワンチームだ
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