株式会社プランシードのブログ

株式会社プランシードの社長と社員によるブログです。
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その325.社長業とは監督業

2017-04-20 06:23:50 | 制作会社社長の憂い漫遊記
私の社長歴はフリーの監督時代を含めると32年になる。
会社にして社員が入ってからだと22年になる。
その間、「あ~もうダメだ、会社がつぶれる」と
マジで思ったのが1度だけある。
約1年間、低空飛行が続き、焦れば焦るほど空回りした。
毎晩脂汗が出て寝不足が続いたが眠れなかった。
地獄のような日々を何とか乗りきったが、
社長だから乗りきれた訳ではない。
その窮地から10年ほど前、
まだ28歳の私がドラマ仕立ての
教育ビデオの監督をした体験が大きなバネになっている。

当時の私は若手のチョー売れっ子だった。
カメラマンも照明マンも、編集や録音スタッフも皆さん年上で、
私につく助監督や制作助手さんでさえ年上だった。
つまり一番年下が監督の私だった。
売れっ子だったカメラマンや先輩監督が、
私にプロダクションを紹介してくれて、
進んで営業活動はしなかったが、本当に忙しかった。
VPといわれるロケ日数3日以内の
低予算のものがほとんどだったが
ロケ日数10日を越える大作も年に数度
担当するようにもなったが内心はいつもヒイヒイ喘いでいた。
しかし彼らはいつも若い監督を温かく見守り
フォローしてくれていたが、
私はその姿勢に恐怖さえいだいていた。
能力以上の仕事量だった。
それでも弱音は吐かず強がっていた。
そんな私は、ある日「カット」が監督の特権だと気づく。
天狗にはなっていたわけではなかったが、
細かなことにばかりこだわり、「カット」をかけていた。
細かなことは誰が見てもわかる。
本質がそこにあるわけではないが、
さもあるかのように慇懃無礼に「カット」を武器にした。
説明はない。「もう一回いってみよう」
いま思えばダメ出しにもなっていない。

仕事量に押し潰され自己分裂しかけていた28歳の時、
当時役者さんの宝庫だった関西芸術座の
ほとんどの役者さんを使う教育ビデオ5本シリーズの
監督・脚本を先輩監督と共同演出することになった。
2千万円級の大作だ。
進行役(チューダーという役回りだった)は、
ジャッキー・チェンの吹替えをする石丸博也さんが担当してくれた。
教育ビデオの脚本は難しい内容を
いかに分かりやすく簡潔に伝えるかにある。
先輩監督は、役者さんとの芝居にこだわり、
私から見れば教育ビデオの脚本になっていなかった。
私は5本の内の2本を担当し脚本を整理し直した。
プロデューサーにそれが受け、
遅々として進まない先輩監督が
担当する3本の脚本の手直しも請け負った。
筆の進まぬ先輩監督はホテルに軟禁されていたが、
援軍の私の登場で軟禁からようやく解放され感謝された。
すべてがうまくいくと確信していた。
しかし撮影が始まってしばらくして、
あれだけフォローしてくれていたカメラマンから
「このシーンのカット割りを教えてくれ」と
投げ掛けられ私は固まった。
「ここで答えなければ監督ではない」と、
一生懸命カット割りを身振り手振りで説明したが、
一向にカメラマンがカメラに手をつけないので
スタッフも動かなくなった。
かくして私の現場での孤立が始まり、
私の役割は「ヨーイ、スタート」「カット」だけになる。

撮影は先輩監督のA班と私のB班が交互に撮影する。
その間に台本の修正をする。
先輩監督の台本修正をした私は
当然のごとくA班の撮影にも立ち会う。
ことあるごとに先輩監督は脚本の修正を依頼するので
私は現場で臨機応変に修正する。
その修正の間に先輩監督はスタッフや役者さんと
コミュニケーションをとり、状況を理解した役者さんは器用に演じる。
先輩監督はそれを楽しんでいる。スタッフも楽しんでいる。
私以外はみな楽しんでいる。
A班の撮影現場はスムーズで役者さんもアドリブを連発し、
先輩監督には脚本を書くときの苦痛の顔など微塵もない。
嬉々としている。
私の脚本が良いからではない。
監督としての技量の差をまざまざと見せつけられた。
現場に立ち会う私に気づいたある役者さんが私の耳元で
「多田さんのヨーイ、スタートの声の方が張りがあり気合いが入るね」
と呟いた。私は絶句し固まった。
私の監督としての仕事は「ヨーイ、スタート」と「カット」の
掛け声だけだったということだ。
演出とは何なのか。スタッフワークとは。
役者さんとのコミュニケーションとは。
実に様々なことをこの仕事で学んだと気づいたのは
それからまだ数年先のことだった。

幸いなことにバブル崩壊前の映像界は、
そんな私を干すことがないほど忙しかった。
私は時代に救われた。
今なら、とっくの昔に私の演出人生は終わり、
転職していたことだろう。
この仕事がその後の私の社長としての
礎になったのはいうまでもない。
金はあとからついてくる。しかし人はついてこない。
バブルも弾け少子化が進む今では、
起業しても3年以内に70%はつぶれるらしい。
しかしその半分以上は資金繰りではなく
人繰りでつぶれているはずだ。
ひらめきで当たるのは最初の1本だけ。
続けていくためにはいかに人と関わるかにある。
押し付けるのではなく、
みなの目指すものと社長の私が目指すものは同じであると
忍耐力と行動力を持って説得し、みなと共に進むことが
会社をつぶさない方法だ、と今の私は思う。
大会社にも中会社にすることも私にはできない。
せいぜい今の規模が私の器なのだと思う。
そしてクライアントの困り事に親身に応える
「かかりつけ医」あるいは「看護師」が私の役割だと思う。
でも向かう方向を指し示すことはできる。
時には「任せた」と言うこともできるようになった。
もちろん彼が途中でヘバればレスキューにもなる。
ただし相変わらず気長ではいが。
社長業とは監督業であり、
監督業とはマネージメントそのものだと、つくづく思う。

まぁそんなかんで祝300回。
社長である間はもう少しこのブログは続きます。
みなさん、これからも共に気張って、
共に楽しんで生きていきまっしょい。

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