株式会社プランシードのブログ

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その62.アナログ・ネイティブ

2012-10-24 10:00:55 | 制作会社社長の憂い漫遊記
少々下世話だが、
男が集まって「お前の好きなもんは何や?」と聞きあいをすると
「酒やな」「ギャンブルやな」「女なや」と、昔から相場が決まっている。
「背中に床柱、右手に酒、左手に女、懐に金が男の最高の贅沢だ」
とも言われてきた。
私の場合、まず消去法でいくと、
会社経営という一世一代のギャンブルをしているので
わざわざギャンブルをすることはない。
タバコを吸わないのでパチンコや麻雀は環境的に受け付けない。
酒は好きだ。男の言い訳を言うと
「仕事柄、酒がコミュニケーションの潤滑剤になる」だが、
昨今では「飲ミニケーション」は流行らない。
しかし気の合う仲間と飲む酒は実に旨いし、つい呑み過ぎてしまう。
女性も大好きだ。これも男の言い訳を言えば
「男子たるもの女性を愛してこそ男子である」となる。
だから大好きな女性と飲む酒が一番旨い。
ちなみにタバコは受け付けないと言ったが、
酒好きだが紫煙モクモクの酒場にはいかないし、
タバコを吸う女性とも基本的にお付き合いできない。
残念だが仕方がない。
「女性の数だけ美しさがある」という名コピーがあるが、まことにそう思う。
なぜに女性はこうも男の心を奪うのか。
私だけではない。監督と呼ばれる方々は決まって女好きである。
映画界では主演女優を射止めるのは監督と相場が決まっている。
しかし最近はお笑人の躍進が目覚ましい。
特にTVの世界では、監督(ディレクター)不在で、予算の都合上もあり、
お笑人が主演、進行、構成、はてはキャスティングまで兼ねてしまう。
こうなると主役はお笑人で、監督が惚れられるチャンスはない。
ギャラもお笑人の方がはるかに稼ぐし、
「この人に監督業をしてもらうためウチが働く」という女性もいなくなった。



監督には方法論も決まったものがないし、
今日から「監督だ」といえば誰が何といおうと監督だ。
ただし仕事があるかどうかは別だが…
方法論でいえば大船調とかいわれるように
昔は撮影所や映画会社により、型(様式)はあったようだが、
いまでは何でもありだ。
撮影時も例えば「対話軸」というのがあって
互いに向かい合って対話しているのを撮る場合
カメラは対話する2人を結ぶ線から出て撮影してはならなかった。
もし越えてしまうと編集でつなげたときに
同じ向きで話していることになり、
向かい合って対話しているように見えない。
これがカメラマンの常識であった。
しかし視聴者にとって常識かといえば意外とそうでもなく、
かえって同じ向きに話していても、
会話していると頭の中でイメージできれば、
「不仲で話が合わない」という表現にもなる。
その状況をイメージさせるための伏線を
しっかり視聴者に示しておけば、何でもアリだ。
これはCMが15秒で作り上げねばならないという制約の中で
様々な表現を駆使している内に、視聴者の目が肥えて
一般に受け入れられるようになったからかもしれない。
私は約30年前ビデオの創世記に、監督になったアナログ・ネイティブだ。
それまでのフィルム世代は、良きにつけ悪しきにつけ
映画の手法を踏襲していた。ビデオの登場で私のような若手が監督になると
それまでのルールは、ルールでなくなった。
むしろルール破りに新しさを感じる世代である。
京都にある東映の太秦撮影所で五社 英雄監督が劇映画を撮るスタジオの
横のスタジオで、20歳代の私がPR作品を撮っている。
東映のスタジオ付きのスタッフは、昨日は五社組で、
今日は多田組で仕事をする。
さぞやりにくかったと思うし「監督!」と呼びにくかったに違いない。



それが30年経ちデジタル ネイティブが登場し、
ミュージックビデオやテレビゲームの撮影を
今まで映画を撮ってきた撮影所で撮る。
変わらないのはチームで作るということだけだ。
チームリーダーは、監督と呼ばれるのではなく
クリエイティブ・ディレクターと呼ばれるようになったが
多くのスタッフをまとめ上げる仕事であることは変わらない。
気分よくスタッフが仕事をできるよう、微に入り際に入り気を配り
自分の思いをカタチにしていく。
長年下積みをしてきた40歳代の助手が、新しいメディアの登場で
20歳代の若造を「監督!」と呼んで指示を仰ぐには
気持ちの整理が追いつかないし、何だかみじめな気持になる。
しかし、時代は移りアナログ・ネイティブが
今度はデジタル ネイティブとタッグを組むことになる。
先に年齢の壁をぶち破ってきたアナログ・ネイティブにとって
新たに台等してきた息子のような年齢のデジタル・ネイティブと組むのに
さほど抵抗はない。
私たちが先輩からいじめられたりしたことを繰り返すことはない。
私たち自身もみじめな気持になることももはやない。
真に作りたい者がつくりたい物を作れる時代になった。
かって桑田 佳祐も小田 和正も島田 紳助も監督になったが
「監督はいなくても映画は撮れる」とスタッフにいびられて
「二度と撮るか!」となって、メガホンを置いたが
アナログ・ネイティブ世代の私、
もしくは当時、映画を志していた若手監督たちは
先輩からいくらいびられても
「二度と撮るか!」とあきらめていられなかった。
とにかく撮りたかったのだ。
だから一生懸命、作品作りの前に、
先輩たちを納得させる状況づくりをしてきた。
30年経ち、私もようやく好きにやらせてもらえるようになった。
そしてデジタル・ネイティブ世代の到来。大歓迎である。
私たちアナログ・ネイティブが味わったイビリなき世界で
大きく羽ばたいてもらいたい。
ちなみに娘からは
「そろそろガラケーを買い換えたら」と言われている。
ガラケー(ガラパゴス携帯)がわからない世代は
あきらかにアナログ世代である。


(私の愛用しているガラケー
 次機種もガラケーにしたが、次第に機種が減っている)

そういえば最近、日本映画の制作現場においても
共同監督作品がチラホラ出てきた。いいものを作りたいという
若者の新しいチームの組み方なのかもしれない。
また、その昔、女流監督ともてはやされたが、
もはや女性の監督、脚本家も珍しくない。
TVドラマでは半々になるくらい女性が躍進している。
肉体労働系のカメラマンや照明マンにも女性が参入し
TVでは女性のみのクルーもあり、
女性を被写体にするドキュメンタリーなどでは
同性ならではの取材を行なっている。
劇映画でも女性スタッフが秀作を撮っている。
新しいメディアが、新しい種族を生み、新しい映像を生み出す。
ただし、感動を与える、琴線に触れる作品だけが後世に残る。


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