私がこの世界に入った30年前は男性の世界だった。
映画監督やTVドラマの脚本家に女性はいたが、微々たるもので
男性社会であった。
というのも昼夜を問わず、場所を選ばず、撮影が行なわれるので
クリエーターとはいえ肉体労働が主体であった。
何十キロもある照明機材や、撮影機材を担いでの移動は
体力がないとできなかった。
ドキュメントであれば機材を持って危険地帯を歩かねばならなかった。
それでもビデオ機材が登場して、機材がハンディーになると
ビデオプロダクションが乱立し、
女性監督(TVではディレクター)が登場してきた。
20年ほど前に富山で開局したTBS系列局の
チューリップテレビ(TUT)に私が構成作家として呼ばれた時、
報道制作室はまさに大奥だった。カメラマンもVEも照明も
入社したての女性が行なっていた。
当時の報道制作部副部長が京都にあるKBS京都の脱藩者?で、
私はその方とKBS京都で仕事をしたのがご縁で、
「特番の構成を書いてほしい」との依頼があり富山まで馳せ参じた。
副部長によると「富山の男性は東京で就職する。
残念ながら残った男性はイマイチで…その点女性は優秀な子が揃っている。
面接しても女性しか最終選考に残らない」という。
今ではUターンやIターンで地元に戻る男性も多いが、
これもまた少子化の影響だ。
その時の笑い話である。20年前のことだから書いても時効かな…
その①「桜咲かない事件」
開局間もないTUTは夕方のニュース枠で数分間の地元枠を持っていた。
後はすべてTBSにお任せ状態。今夜のテーマは「富山も桜開花」。
取材に出かけた女性クルーが帰還した。
「うまく撮れたか?」「桜がツボミで…」
「撮影はしたのか?」「ツボミだったので撮ってません」
「なにも(撮ってないの)?」「なにも(撮ってません)!」
「全く(撮ってないの)?」「はい!咲いてなかったので…」
「じゃ今夜のニュースは何を流すの?」「さぁ…」
その②「入学式で校長怒る!事件」
とある小学校の入学式の取材に出た女性クルー。
演台で話す校長ごしに客席を撮ろうとクルーが校長の後ろに回った。
客席の目線が校長から女性クルーに釘付けになった。
なぜなら女性クルーは全員ミニスカートだったのだ。
校長は自分の話が台無しになったと抗議の電話を室長にかけてきた。
などなど、驚く事件が勃発していた。
私にあたえられたミッションは「富山の春」という特番だったが
よほど彼女たちの日常をドキュメントする方が
「富山の春」にふさわしいと思ったものだ。
(KBS京都の番組構成作家をしていたご縁で
砂田氏がTUTに移籍したのを期に
私を構成作家として富山まで呼んでくださった)
その頃、大阪のPR映像の世界にも若手女流監督が出だした。
いずれも番組を中心に制作する会社からフリーとなっている。
西村 由美監督に続き、少し遅れて山本 康子監督、
さらに遅れて辻 嘉恵子監督などで、当時制作本数の多かったPR映像に
参入し、次第に番組などでも活躍するようになっていった。
しかし次第にPR映像が斜陽になるに従って、
経済的感性の優れる女流監督は姿を消していった。
変わって出てきたのは女流カメラマンである。
私たちが組織していたオフィス・キネティックからも
大沢 佳子カメラマンが劇映画の世界に羽ばたいていった。
ビデオ系撮影会社にも女性カメラマンが出てきたが、
これもまた経済的感性の優れるがゆえ次第に姿を消していく。
もちろん、それでもがんばっている女流カメラマンもいる。
しかし完全に斜陽産業になったPR映像の世界では、
いまでは女性スタッフは重要文化財に値する。
さらに女性でフリーなら天然記念物に値する。
(写真真ん中の大沢 佳子カメラマンと
右端の西村 由美監督)
さて映像の世界で男と女の感性の違いがあるのか?
恋愛論では男と女の感性の違いはよく論じられる。
例えば、男が一生懸命に論理的に説明して結論を導き出しても、
女はプロセス重視で、結論には興味がないからイライラする。
女が一生懸命話しても、男は結論が出ないからイライラする。
などは一般に言われる代表格であるが、
恋人や夫婦として男女関係をみるとよくわかる論理でもある。
しかし、監督が男であろうが女であろうが、
声に出して結論をスタッフにいわなければスタッフは動けない。
では、女流監督が男性スタッフの中で
うまくやるにはどうすればよいのか?
まずはお互いの立場を認識すること。くれぐれも
「言わなくてもそれぐらいわかるでしょ?」
なんて考えはスタッフには通用しない。
スタッフも常日頃から女流監督の態度や言動に気配りをしておき
ささやかなシグナルでも気づいてあげられるよう努力をする。
と書いたが、これなら男も女も差はない。
監督としてしなければならないことであり、
スタットとして行なわなければならない気遣いである。
男とか女とかで変わることはない。
(写真下 山本 康子監督
この時は私の助監督をしてくれた
山本監督の真上が私)
では女流監督ならではの作風とはなんなのか?
そんなのあるのかなぁ???私にはよくわからない。
ではカメラマンはどうだろうか?
私は女性カメラマンとも仕事をするが、
「女性だからこんなカットを撮るのか…」と感心したことはない。
むしろ仕事終わりの飲み会で初めて女性を意識するくらいだ。
残念ながら、こと女性カメラマンに関しては
頑丈で屈強な体形の方が多く、女性として意識できない。
がしかしいま思えばTUTの女性クルーは
皆さん美人でスタイルもよく
いわゆるレースクイーンがクルーになったようだった。
演台に立つ校長よりも彼女たちを見てしまうのは致し方ない。
また30年ほど前に登場してきた女流監督
(少なくとも私の知る3名の女流監督)は
皆さん美人でスタイルがよかった。
女性ナレーターよりもはるかにきれいで個性的だった。
動物に例えるなら、ウサギか子猫。
しかし、存在感はいずれもライオンだ!ガオ~~~ッ!!
映画監督やTVドラマの脚本家に女性はいたが、微々たるもので
男性社会であった。
というのも昼夜を問わず、場所を選ばず、撮影が行なわれるので
クリエーターとはいえ肉体労働が主体であった。
何十キロもある照明機材や、撮影機材を担いでの移動は
体力がないとできなかった。
ドキュメントであれば機材を持って危険地帯を歩かねばならなかった。
それでもビデオ機材が登場して、機材がハンディーになると
ビデオプロダクションが乱立し、
女性監督(TVではディレクター)が登場してきた。
20年ほど前に富山で開局したTBS系列局の
チューリップテレビ(TUT)に私が構成作家として呼ばれた時、
報道制作室はまさに大奥だった。カメラマンもVEも照明も
入社したての女性が行なっていた。
当時の報道制作部副部長が京都にあるKBS京都の脱藩者?で、
私はその方とKBS京都で仕事をしたのがご縁で、
「特番の構成を書いてほしい」との依頼があり富山まで馳せ参じた。
副部長によると「富山の男性は東京で就職する。
残念ながら残った男性はイマイチで…その点女性は優秀な子が揃っている。
面接しても女性しか最終選考に残らない」という。
今ではUターンやIターンで地元に戻る男性も多いが、
これもまた少子化の影響だ。
その時の笑い話である。20年前のことだから書いても時効かな…
その①「桜咲かない事件」
開局間もないTUTは夕方のニュース枠で数分間の地元枠を持っていた。
後はすべてTBSにお任せ状態。今夜のテーマは「富山も桜開花」。
取材に出かけた女性クルーが帰還した。
「うまく撮れたか?」「桜がツボミで…」
「撮影はしたのか?」「ツボミだったので撮ってません」
「なにも(撮ってないの)?」「なにも(撮ってません)!」
「全く(撮ってないの)?」「はい!咲いてなかったので…」
「じゃ今夜のニュースは何を流すの?」「さぁ…」
その②「入学式で校長怒る!事件」
とある小学校の入学式の取材に出た女性クルー。
演台で話す校長ごしに客席を撮ろうとクルーが校長の後ろに回った。
客席の目線が校長から女性クルーに釘付けになった。
なぜなら女性クルーは全員ミニスカートだったのだ。
校長は自分の話が台無しになったと抗議の電話を室長にかけてきた。
などなど、驚く事件が勃発していた。
私にあたえられたミッションは「富山の春」という特番だったが
よほど彼女たちの日常をドキュメントする方が
「富山の春」にふさわしいと思ったものだ。
(KBS京都の番組構成作家をしていたご縁で
砂田氏がTUTに移籍したのを期に
私を構成作家として富山まで呼んでくださった)
その頃、大阪のPR映像の世界にも若手女流監督が出だした。
いずれも番組を中心に制作する会社からフリーとなっている。
西村 由美監督に続き、少し遅れて山本 康子監督、
さらに遅れて辻 嘉恵子監督などで、当時制作本数の多かったPR映像に
参入し、次第に番組などでも活躍するようになっていった。
しかし次第にPR映像が斜陽になるに従って、
経済的感性の優れる女流監督は姿を消していった。
変わって出てきたのは女流カメラマンである。
私たちが組織していたオフィス・キネティックからも
大沢 佳子カメラマンが劇映画の世界に羽ばたいていった。
ビデオ系撮影会社にも女性カメラマンが出てきたが、
これもまた経済的感性の優れるがゆえ次第に姿を消していく。
もちろん、それでもがんばっている女流カメラマンもいる。
しかし完全に斜陽産業になったPR映像の世界では、
いまでは女性スタッフは重要文化財に値する。
さらに女性でフリーなら天然記念物に値する。
(写真真ん中の大沢 佳子カメラマンと
右端の西村 由美監督)
さて映像の世界で男と女の感性の違いがあるのか?
恋愛論では男と女の感性の違いはよく論じられる。
例えば、男が一生懸命に論理的に説明して結論を導き出しても、
女はプロセス重視で、結論には興味がないからイライラする。
女が一生懸命話しても、男は結論が出ないからイライラする。
などは一般に言われる代表格であるが、
恋人や夫婦として男女関係をみるとよくわかる論理でもある。
しかし、監督が男であろうが女であろうが、
声に出して結論をスタッフにいわなければスタッフは動けない。
では、女流監督が男性スタッフの中で
うまくやるにはどうすればよいのか?
まずはお互いの立場を認識すること。くれぐれも
「言わなくてもそれぐらいわかるでしょ?」
なんて考えはスタッフには通用しない。
スタッフも常日頃から女流監督の態度や言動に気配りをしておき
ささやかなシグナルでも気づいてあげられるよう努力をする。
と書いたが、これなら男も女も差はない。
監督としてしなければならないことであり、
スタットとして行なわなければならない気遣いである。
男とか女とかで変わることはない。
(写真下 山本 康子監督
この時は私の助監督をしてくれた
山本監督の真上が私)
では女流監督ならではの作風とはなんなのか?
そんなのあるのかなぁ???私にはよくわからない。
ではカメラマンはどうだろうか?
私は女性カメラマンとも仕事をするが、
「女性だからこんなカットを撮るのか…」と感心したことはない。
むしろ仕事終わりの飲み会で初めて女性を意識するくらいだ。
残念ながら、こと女性カメラマンに関しては
頑丈で屈強な体形の方が多く、女性として意識できない。
がしかしいま思えばTUTの女性クルーは
皆さん美人でスタイルもよく
いわゆるレースクイーンがクルーになったようだった。
演台に立つ校長よりも彼女たちを見てしまうのは致し方ない。
また30年ほど前に登場してきた女流監督
(少なくとも私の知る3名の女流監督)は
皆さん美人でスタイルがよかった。
女性ナレーターよりもはるかにきれいで個性的だった。
動物に例えるなら、ウサギか子猫。
しかし、存在感はいずれもライオンだ!ガオ~~~ッ!!
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