今日も酔ってます。
今日は仕事を終えて、月に一度の病院の日。
主に近況の報告。
「仕事もしながら、たまに友人らと飲んでます。最近は結婚した友人が増えて、子どもが生まれた友人も多くなりました。」
そしたら、
「そんな日常の中で、あなたにも素敵な人が現れるといいですね」
と先生は言ってくれた。
やっぱり心配してくれてんだな。
ひとりでいることを。
「支えてあげて、支えてもらえるような、対等な人がいいですね。無理にとは言いませんが、自然と現れることを祈っています。」
とりあえず、笑っといた。( ´ー`)
「死んだものが望むのは、生きているものの幸せ」
と、どっかの本に書いてあったな。
おれがあいつの立場なら・・・
ふむ・・・
確かにそうかもしれないな。
「今を生きる」
おれの卒論のテーマだったな。
どんな大学生だったんだ?おれ?
卒論が、今のおれに、難題を問いかけているようだ。
生意気な。
まあ、そんなことはスルーして、いつものように、のらりくらり生きていくんだろうけども~。
それに関係するかどうかわからんけど、
今日の仕事の休憩中に、ガンの話が出てきたので、ガンについて考えてみた。
余談だけど、私はガン保険に入っている。
もし末期ガンと診断されて、余命を宣告されたら?
まず、予め用意してある、必要最低限の連絡網にて、状況の説明を行なう。
もちろん、このブログでも。(入院しても、こっそり携帯持ち込んで更新してるかもしれんな・・・w)
そして、人生設計をしていたときによくやっていた、逆算を行なう。
余命3ヶ月前までに何々をするか。
2ヶ月前。
1ヶ月前。
1週間前。
没。
残り1週間は昏睡状態かもしれんから、それまでに何ができるのかを頭をフル回転させて考える。
そして実行する。
独自のネットワークをフルに活かす(はず)。
延命治療は、経過を見て判断する。
ガン治療には、お金がかかるし、
歯医者みたいに、混合診療はできんから。
延命治療を施して、1秒でも生き長らえるか。
苦痛を考慮して、やめるか。
そして訪れるのは、モルヒネでも抑えきれないほどの痛みと緩やかな死。
最悪なパターンを想定する。
ふむ。
やるだけやって、だめだったら、まあしょうがない。
皆にはそう受け止めてもらおう。
自分としても、異議はないだろう。
なるべくしてなった結果。
それも運命として受け入れるだろう。
・・・
生きると死ぬは、となり合わせ。
生きながら、死んだときのことを想定するのは変ではない。
ただ、孔子は弟子たちに、死の問題に触れぬように諭したという。
それは、孔子の『論語』の中にある、
『未だ生を知らず 焉(いずく)んぞ死を知らんや』
からも見てとれる。
生の意味も知らないのに、まして死の意味など知ることができようか。(いや、できない)
「考えてもしょうがねーよ。」
とも聞こえる。
極論、そのとおり。
どんなに真面目な話でも、
最後に「なーんちゃって」をつけると、
それ以前の話はすべて冗談のように聞こえる。
確かこれ、高校の現代文に出てきたな。
これに似ている。
そういうことなんだろうなぁ。
結局は、
なるべくしてなる。
なるようにしかならない。
ということなんじゃないだろうか。
それは、すべての運命のカラクリが働き、そして、おのおのの努力を怠ってはならない。
ということが言えるだろう。
「どうせすべての運命が決まってるなら、努力したって無駄じゃん~」
ってなっちゃうから。
努力の過程が結果に結びつくことになってるから、努力は必要。
人って難しいわ。
なんか疲れた。
多分、ここまで、さっきの文と合ってるはず。
眠たい・・・
つまりは、どんなに考えても、それは確率の実験家になってしまう。
あーすればこーなるし、こーすれば、あーなるし。
考えすぎて、一歩も歩けなくなる。
そして破局を迎える。
考えるのもいいけど、歩いてみないとわからないことがある。
人には破局に対する防御機能が備わっていると考える。
それがどんな方法で、どんな時に働き、どんな結果をもたらすのかわからないけど。
おそらく本能で、知っているはず。
でなきゃここに生きておらんだろう。
生きているだけでも十分、奇跡だわ。
「未来は明るいか?」
と聞かれれば、
「いや」
と答えるが、
すぐその後に、
「まだわからん」
と続けるだろう。
最後に、なんで酔ってるかというと、
冷蔵庫に缶チューハイ1本、白ワイングラス1杯分、赤ワイングラス1杯分が残っていたから。
ただ、それだけ。
あぁ!最後の最後に、もうひとつだけ。
1年後はわからんが、とりあえず明日は生きてるだろう。
そう思って、毎日生きていくんだろうな。
それが3日、1週間、1ヶ月、365日続き、2年、3年、5年、10年、20年・・・
ロウソクの火が燃え尽きるように。
緩やかに、ゆっくりと、確実に。
燃え尽きる前に火が消えたら、
二度と火をつけることは叶わんがな。
それでも溶けたロウソクはそこに存在した。
それが認識できれば、溶けたロウソクは模倣子となって、自分や誰かの中で生きていくだろう。
そんな気がしないか?
今日は仕事を終えて、月に一度の病院の日。
主に近況の報告。
「仕事もしながら、たまに友人らと飲んでます。最近は結婚した友人が増えて、子どもが生まれた友人も多くなりました。」
そしたら、
「そんな日常の中で、あなたにも素敵な人が現れるといいですね」
と先生は言ってくれた。
やっぱり心配してくれてんだな。
ひとりでいることを。
「支えてあげて、支えてもらえるような、対等な人がいいですね。無理にとは言いませんが、自然と現れることを祈っています。」
とりあえず、笑っといた。( ´ー`)
「死んだものが望むのは、生きているものの幸せ」
と、どっかの本に書いてあったな。
おれがあいつの立場なら・・・
ふむ・・・
確かにそうかもしれないな。
「今を生きる」
おれの卒論のテーマだったな。
どんな大学生だったんだ?おれ?
卒論が、今のおれに、難題を問いかけているようだ。
生意気な。
まあ、そんなことはスルーして、いつものように、のらりくらり生きていくんだろうけども~。
それに関係するかどうかわからんけど、
今日の仕事の休憩中に、ガンの話が出てきたので、ガンについて考えてみた。
余談だけど、私はガン保険に入っている。
もし末期ガンと診断されて、余命を宣告されたら?
まず、予め用意してある、必要最低限の連絡網にて、状況の説明を行なう。
もちろん、このブログでも。(入院しても、こっそり携帯持ち込んで更新してるかもしれんな・・・w)
そして、人生設計をしていたときによくやっていた、逆算を行なう。
余命3ヶ月前までに何々をするか。
2ヶ月前。
1ヶ月前。
1週間前。
没。
残り1週間は昏睡状態かもしれんから、それまでに何ができるのかを頭をフル回転させて考える。
そして実行する。
独自のネットワークをフルに活かす(はず)。
延命治療は、経過を見て判断する。
ガン治療には、お金がかかるし、
歯医者みたいに、混合診療はできんから。
延命治療を施して、1秒でも生き長らえるか。
苦痛を考慮して、やめるか。
そして訪れるのは、モルヒネでも抑えきれないほどの痛みと緩やかな死。
最悪なパターンを想定する。
ふむ。
やるだけやって、だめだったら、まあしょうがない。
皆にはそう受け止めてもらおう。
自分としても、異議はないだろう。
なるべくしてなった結果。
それも運命として受け入れるだろう。
・・・
生きると死ぬは、となり合わせ。
生きながら、死んだときのことを想定するのは変ではない。
ただ、孔子は弟子たちに、死の問題に触れぬように諭したという。
それは、孔子の『論語』の中にある、
『未だ生を知らず 焉(いずく)んぞ死を知らんや』
からも見てとれる。
生の意味も知らないのに、まして死の意味など知ることができようか。(いや、できない)
「考えてもしょうがねーよ。」
とも聞こえる。
極論、そのとおり。
どんなに真面目な話でも、
最後に「なーんちゃって」をつけると、
それ以前の話はすべて冗談のように聞こえる。
確かこれ、高校の現代文に出てきたな。
これに似ている。
そういうことなんだろうなぁ。
結局は、
なるべくしてなる。
なるようにしかならない。
ということなんじゃないだろうか。
それは、すべての運命のカラクリが働き、そして、おのおのの努力を怠ってはならない。
ということが言えるだろう。
「どうせすべての運命が決まってるなら、努力したって無駄じゃん~」
ってなっちゃうから。
努力の過程が結果に結びつくことになってるから、努力は必要。
人って難しいわ。
なんか疲れた。
多分、ここまで、さっきの文と合ってるはず。
眠たい・・・
つまりは、どんなに考えても、それは確率の実験家になってしまう。
あーすればこーなるし、こーすれば、あーなるし。
考えすぎて、一歩も歩けなくなる。
そして破局を迎える。
考えるのもいいけど、歩いてみないとわからないことがある。
人には破局に対する防御機能が備わっていると考える。
それがどんな方法で、どんな時に働き、どんな結果をもたらすのかわからないけど。
おそらく本能で、知っているはず。
でなきゃここに生きておらんだろう。
生きているだけでも十分、奇跡だわ。
「未来は明るいか?」
と聞かれれば、
「いや」
と答えるが、
すぐその後に、
「まだわからん」
と続けるだろう。
最後に、なんで酔ってるかというと、
冷蔵庫に缶チューハイ1本、白ワイングラス1杯分、赤ワイングラス1杯分が残っていたから。
ただ、それだけ。
あぁ!最後の最後に、もうひとつだけ。
1年後はわからんが、とりあえず明日は生きてるだろう。
そう思って、毎日生きていくんだろうな。
それが3日、1週間、1ヶ月、365日続き、2年、3年、5年、10年、20年・・・
ロウソクの火が燃え尽きるように。
緩やかに、ゆっくりと、確実に。
燃え尽きる前に火が消えたら、
二度と火をつけることは叶わんがな。
それでも溶けたロウソクはそこに存在した。
それが認識できれば、溶けたロウソクは模倣子となって、自分や誰かの中で生きていくだろう。
そんな気がしないか?