フィリピンりぱぶりっく狂笑国

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フィリピン日本人奇行

2006-01-26 | フィリピン
この当時は、ピンパブにいる姫はその殆どがショーを行っていたようにも記憶がある。竹竿2本で踊るバンブーダンス。オヤジ殿はダンサーに誘われ舞台へあがってそのダンスに挑戦。参加賞はバナナと頬にキス。ちょっとこなれた店ではシースルーもしくはヌードショーも。スケスケの衣装から見えるどす黒い乳首にぞっとしていた頃かも。この類と、女性バンドが結構日本国内で見られるようになった頃でもある。しかし、シースルーは異常に人気があり、当時のパパはカラオケからケソン界隈のディスコに出演しているヌードダンサーをスカウトするために、ナイトライフが変わってきた頃でもある。ケソン市のディスコベリーのVIPルームはすべて日本人パパで埋まっていた頃かも。確かにこの頃の日本人パパ、勢いは半端ではなかった。300ドルくらいのファーストタイマーが40万円もの出演料で、日本国内で売れた頃。純利1名30万円。東京都内の空箱使って地方へ飛ばし。何でもありの時代の幕開けでもある。今考えると、入管はまったくこの業界を無視していた時代で、亀有あたりの5人くらいしか入れない地下スナックの店内図面をあたかも60坪もあるように書き換え、写真を偽装しても、すんなり許可された時代。当然、現地大使館へは現地査証申請し重複入れ込みなど何を遣っても差ほど関係ないとも思える入管行政時代である。運悪く摘発されても「悪いことしてはだめでしょう」で終わった頃である。
成田空港からはユナイテッド、エジプト、パキスタン、ノースウエスト、日本航空、フィリピン航空の喫煙航空機がマニラへ路線展開していた。名古屋、大阪、福岡からはまだ路線がなかったかもしれない。当時は台湾人も日本国内のクラブで見られた頃で、新宿歌舞伎町には台湾人の売春婦がぞろぞろ、赤坂では韓国人売春婦。地方にフィリピン人売春婦も相当いた。その当時のパパは、クラブのパパと台湾でオーディション、その後、買春三昧、台北からマニラへ。マニラでも大判振舞、買春、散財、日本へ戻っていた頃でもある。確かに、どの航空便も混雑はしていたが、今のような日本人奇行とは違っていたようにも思える。
ここマニラでつれている姫、パパは確かに姫であったが、他の日本人は専ら買春のエルミタ不夜城族が殆どだったのかも。空港内でも飛行機内でも今のように女三昧の話しかできない酔っ払いも少なかったかも。
この当時の招聘者パパ、確かに良く遊んでいた。金もかかった。しかし、姫スカウトの姿勢は非常に前向きでよく働いたようにも思えた。
マラテに合ったスポーツマンクラブ。このカラオケはこの当事の招聘者パパであれば良く知っている場所。日本全国の招聘者パパとクラブのパパ。このカラオケへ日参。随分高額な利用料金を支払っていた。当事毎晩8000ペソくらいから10000ペソ。当事はペソ9円。一晩にこのマニラで7万から10万円もの飲食料金を。この当事、ご乱交に熱心なピンパブ関係者。まさか飲み放題1時間30分3000円などの金額になるとは誰も思わなかったかも。

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5 コメント

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コメント有難うございました。 (pp)
2006-03-22 19:35:47
>hitomi様 1980年代 26年前エルミタ地区は不夜城。このごろの日本人は飛行機の中で葉さほど五月蝿くなかったですね。結構背広を着た農協殿の多かった頃かも知れません。この当事のダンサーは150ドルくらいで、日本のクラブへの歌手は300ドルくらいから500ドル。800ドルや1000ドルともなるとそれはそれは。この頃から日本国内の地方都市へ飛ばしする業者がチラホラ現れた頃かもしれません。大きなクラブに2、3人くらいでしたね。
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こんばんは。 (hitomi)
2006-03-20 01:25:20
こちらでははじめまして。昔のフィリピン懐かしく思い出しました。私が初めて渡比した当時は1ペソ\30円でした。物価は今と比べメチャメチャ安かったのですが。ロハスにあったディスコ?ショーとレストランを兼ねているような店での忘れられないエピソ\ード。当時の日本では考えられないトップレスの女の子のダンス。ビンゴか何かで司会者に名前を呼ばれた上流階級の夫婦の名前「Mr & Mrs ウンコ」(中国系の名前だそうです。ちなみにスケベという名字もあると知りました。)私は飲んでいたコーラをおもいきり吹き出したものでした。日本名も、ナナちゃんもいれば、たえちゃんもいるから、今ではどうという事はないのですがカルチャーショックでした。この店は確か四人で100ペソ\位で安いと思ったら、そこそこ高級店だったようです。当時(80年)私の知る限りでは、日本にフィリピンパブと名打つ店はなかったと記憶してます。シンガーはいましたが、最近のダンスも歌も出来ない子と違い物凄い歌唱力でした。1$240円位の時に月1000$の契約で、客の席には一切座らないとプライドを持って、歌を売ってました。フィリピン行きの飛行機の件ですが、当時は日系企業の方が多かったのか?品があり落ち着いていました。最近は半分以上酔っ払いのゴロツキみたいなので、フィリピンパブと勘違いしている族が多くなり、辟易しています。懐かしくコメントのつもりが愚痴になってしまいました。ごめんなさい。又寄らせてください。
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Unknown (KAI)
2006-01-27 17:30:51
同じエリアに同じ名前の店が有るので勘違いしちゃった。
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Unknown (PP)
2006-01-27 14:26:17
>KAI様 スポーツマンクラブ(カラオケ店です)は今から17年位前に閉店。現在はその代表者はボコボ通りの交差点で海鮮料理店を営業中です。
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本当ですか?! (KAI)
2006-01-26 21:04:19
>オヤジ殿はダンサーに誘われ舞台へあがってそのダンスに挑戦。参加賞はバナナと頬にキス。



逆にピーノが籠持ってチップ回収していたピンパブも有ったな。



>ここマニラでつれている姫、パパは確かに姫であったが、他の日本人は専ら買春のエルミタ不夜城族が殆どだったのかも。



わーお! 知らなかった。そんな店だったとは。 



今でもエルミタに近くセルアップは有るけど明朗会計で通信カラオケが有るのでたまに行きますがそんな雰囲気は全く無かったです。



照明もこの手の店の割には異常に明るいし。
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