不動院と天海と東照三所大権現(1)
天海と三浦氏の名刀・海老鎖切(えびじょうきり)
江戸崎不動院に入寺以前、天海は「随風(ずいふう)」
と名乗り、会津黒川城内の稲荷堂の別当をしていました。
天海は、元亀2年(1571)の織田信長による比叡山焼き討ち
の後、甲斐の武田信玄の元に身を寄せたと伝えられ、
会津出身の優秀な僧侶が甲斐国にいると聞きつけた、
会津黒川城主の芦名盛氏に招かれたといわれています。
その後の天海の動向を伝える記録として、宮本茶村が
編纂した『安得虎子』という書物に「会津旧伝」(№36)
があり、そこに、天正17年(1589)6月5日に芦名義広と
伊達政宗が摺上原で戦い、芦名方が破れ、黒川へ退き、
義広の実家の佐竹氏の元へ落ちて行ったことが記され
ています。
更に、「会津旧伝」の頭註に、「天海僧正伝」には、
天海(随風)が三浦介時継が佩用した太刀を帯び、
伊達方の追撃の兵を一喝してこれを退かせた!
という記述も紹介されています。
「大僧正天海書状」『三浦文書』影写本(№40)
には、天海が先祖と仰ぐ三浦氏伝来の宝刀五腰の内、
自らが所有する「海老鎖切(えびじょうきり)」を
同じ三浦氏の血を引き、紀州藩家老の三浦将監為時に
譲るとした文書も伝えられています。
天海は、仏教のあらゆる教義や思想、修法に通じていた
と伝えられることから、修験者のように刀を帯びる
こともあったのかもしれませんね。
そして、身に帯びるは、先祖伝来の宝刀…
そして、それは「天海」の出自が三浦氏を祖と仰ぐ、
芦名氏の一族だったことから、
天海のアイデンティティーを示す、とても大切なものだったのです。
天海が愛蔵した「伝家の宝刀」、どのようなものだった
か、大変気になりますね!
天海と三浦氏の名刀・海老鎖切(えびじょうきり)
江戸崎不動院に入寺以前、天海は「随風(ずいふう)」
と名乗り、会津黒川城内の稲荷堂の別当をしていました。
天海は、元亀2年(1571)の織田信長による比叡山焼き討ち
の後、甲斐の武田信玄の元に身を寄せたと伝えられ、
会津出身の優秀な僧侶が甲斐国にいると聞きつけた、
会津黒川城主の芦名盛氏に招かれたといわれています。
その後の天海の動向を伝える記録として、宮本茶村が
編纂した『安得虎子』という書物に「会津旧伝」(№36)
があり、そこに、天正17年(1589)6月5日に芦名義広と
伊達政宗が摺上原で戦い、芦名方が破れ、黒川へ退き、
義広の実家の佐竹氏の元へ落ちて行ったことが記され
ています。
更に、「会津旧伝」の頭註に、「天海僧正伝」には、
天海(随風)が三浦介時継が佩用した太刀を帯び、
伊達方の追撃の兵を一喝してこれを退かせた!
という記述も紹介されています。
「大僧正天海書状」『三浦文書』影写本(№40)
には、天海が先祖と仰ぐ三浦氏伝来の宝刀五腰の内、
自らが所有する「海老鎖切(えびじょうきり)」を
同じ三浦氏の血を引き、紀州藩家老の三浦将監為時に
譲るとした文書も伝えられています。
天海は、仏教のあらゆる教義や思想、修法に通じていた
と伝えられることから、修験者のように刀を帯びる
こともあったのかもしれませんね。
そして、身に帯びるは、先祖伝来の宝刀…
そして、それは「天海」の出自が三浦氏を祖と仰ぐ、
芦名氏の一族だったことから、
天海のアイデンティティーを示す、とても大切なものだったのです。
天海が愛蔵した「伝家の宝刀」、どのようなものだった
か、大変気になりますね!