稲敷資料館日々抄

稲敷市立歴史民俗資料館の活動を広く周知し、文化財保護や資料館活動への理解を深めてもらうことを目的にしています。

特別展「常刕江戸崎不動院」の見どころ!(17)

2022年03月18日 | 日記
不動院と天海と東照三所大権現(8)

不動院に存在した「山王御本地」

前回は、江戸崎不動院に残る天海直筆の
「南無東照三所大権現」宝号の掛軸と、「三所」に
ついてお話し致しました。

天海が不動院に入寺した時、その頃はまだ「随風」を
名乗っていました。

それ以前の不動院は、江戸崎土岐氏の祈願寺として、
江戸崎城の後背を守る予備的な軍事拠点であると同時に
霊的な守護所だったのではないか…と推測されます。

また、不動院は天文の絹衣相論の中核となった寺院でしたので、
神野覚助が千葉氏の一族だったことなどは、江戸崎城攻略
の第一目標として不動院が占領され、そこに陣が敷かれる
遠因となったかもしれません。

神野覚助の占領により不動院は荒れ果て、随風はしばらく
の間、江戸崎新宿の華蔵院に居住したと地元に伝えられています。

占領の混乱の最中でしょうか、不動院はいくつかの宝物を失っていた
らしく、『不動院記録』№3の「山王御本地裏書写」
に、「…折節当院依無之 教成坊豪弁所持之間 
当寺之本尊定也 当院大和尚随風判」とあり、
天海の片腕と言われ、不動院13世となった最教院晃海が
記した記録に、「(戦乱で荒廃した)不動院にはこれ(山王御本地)が
無かったが、教成坊豪弁が持っていたので、当寺(不動院)
の本尊と定めた」と見えます。

教成坊豪弁が何処の、何者か、はっきりとしたことは
分かっていませんが、同時代の稲敷市阿波崎の「満願寺文書」
に「豪弁寺領差出」という文書があり、満願寺の住職だった
豪弁と同一人物であると考えられています。
満願寺は、江戸時代には不動院末寺で最も多くの檀家を抱え、
また中世においては香取の海(霞ヶ浦)の要衝として、人や
物資が行き交う場所の一つで、豊かだったと窺えます。

また、「当寺之本尊定也」についても、検討が必要ですが、
不動院には不動堂とは別に山王権現を祀ったお堂があったと
考えられ、そのお堂の本尊だったと推測されています。

特別展「常刕江戸崎不動院」の見どころ!(16)

2022年03月18日 | 日記
不動院と天海と東照三所大権現(7)


江戸崎不動院の「東照三所大権現宝号」

前回は、徳川家康のお葬式を取り仕切ったのが、江戸崎
大念寺の開山僧・源誉慶巖だった!というお話でした。

一周忌が過ぎた家康の霊は日光山に勧請されることに
なるのですが、その祭祀の方法について、議論がおこな
われました。

大明神として祀られた豊臣秀吉の豊臣氏が滅亡したこと
などから、家康は大権現として祀られることになり、
その方法は一説に、天海が後陽成院より授けられたと
される「山王一実神道」に基づくことになります。

江戸崎不動院には、天海直筆の「南無東照三所大権現」
(№63)の宝号の掛軸
が遺されています。


「東照大権現」や「権現様」というと、徳川家康の別称
であったり、東照大権現像という名の徳川家康とされる
肖像画を見たことのある方も多いかと思います。
東照大権現=徳川家康であることは、周知の事実ですね。

では、「三所」とは一体何でしょう?
実質的に天海が考案した、山王一実神道とは、天台宗の
「山王神道」を元にしているとされています。

三所は、三柱の神様で、権現ですから神仏習合の本地
仏が存在しています。
簡単に説明すると…
東照大権現=薬師如来(徳川家康)
日吉山王権現=阿弥陀如来(①)
摩多羅神=釈迦如来(②)
と言われています。

これらを三つ合わせてお祀りし
「東照三所大権現」としたのです。

天海は、徳川家と、徳川幕府の始祖である家康を、
天台宗の鎮守である山王権現と一緒にお祀りすることで、
徳川幕府の元で天下泰平を祈る天台宗という形を作り
あげました。

このように、東照権現信仰は幕末まで神仏習合
の形でおこなわれたのです。