稲敷資料館日々抄

稲敷市立歴史民俗資料館の活動を広く周知し、文化財保護や資料館活動への理解を深めてもらうことを目的にしています。

特別展「常刕江戸崎不動院」の見どころ!(11)

2022年03月08日 | 日記
不動院と天海と東照三所大権現(2)

天海が入寺する直前の不動院の様子

前回は、会津の芦名氏が摺上原で伊達政宗に敗れ、
会津を落ちて常陸国の佐竹氏の元に身を寄せたこと。

天海(随風)が、先祖伝来の三浦氏の宝刀・海老鎖切を
帯びて、伊達氏の追撃の兵に対峙し、これを一喝して
退かせた、という伝えのあることを紹介しました。

今回は、天海が江戸崎にやってくる直前の様子について
見てみたいと思います。

天正18年(1590)、豊臣秀吉は小田原の北条氏を攻め
滅ぼします。この小田原合戦の際、江戸崎の土岐氏は
小田原方に付いたことから、攻撃を受けることに
なります。

『臼田文書』の「臼田左衛門尉覚書」(№37)は、
江戸崎城の落城の様子を伝える同時代の史料とされて
います。


これによると、天正18年5月19日に神野覚助が江戸崎に入り、
まず第一に不動院を占領します。すると翌20日には、
江戸崎城は落城し、土岐殿(治綱)を高田須(高田御城)
へ退去させ、城下にいた侍、1,000人も退去させています。

不動院は、舌状台地上の先端に位置する江戸崎城の
戦術的な防衛拠点であり、かつ祈願寺ですから霊的な
守護でもあったと思われますが、これを奪われたこと
で、あえなく城が落城しています。

『逢善寺文書』の「恵心流次第事」の定珍注記部分(№38)
には、江戸崎に会津の芦名盛重が入部し、同道して稲荷堂
随風(天海)がやって来て、その取り成しにより逢善寺
の寺門をつなぐことができたことや、土岐治綱が下総国
の須田の牢に押し込められていることなどが記されています。

この逢善寺・定珍の記述が、一次史料として最も早い
随風(天海)の記述だと考えられており、これが比叡山
や天台宗でも名の知られた名僧・定珍と天海の出会い
だったと考えられます。