不動院と天海と東照三所大権現(2)
天海が入寺する直前の不動院の様子
前回は、会津の芦名氏が摺上原で伊達政宗に敗れ、
会津を落ちて常陸国の佐竹氏の元に身を寄せたこと。
天海(随風)が、先祖伝来の三浦氏の宝刀・海老鎖切を
帯びて、伊達氏の追撃の兵に対峙し、これを一喝して
退かせた、という伝えのあることを紹介しました。
今回は、天海が江戸崎にやってくる直前の様子について
見てみたいと思います。
天正18年(1590)、豊臣秀吉は小田原の北条氏を攻め
滅ぼします。この小田原合戦の際、江戸崎の土岐氏は
小田原方に付いたことから、攻撃を受けることに
なります。
『臼田文書』の「臼田左衛門尉覚書」(№37)は、
江戸崎城の落城の様子を伝える同時代の史料とされて
います。
これによると、天正18年5月19日に神野覚助が江戸崎に入り、
まず第一に不動院を占領します。すると翌20日には、
江戸崎城は落城し、土岐殿(治綱)を高田須(高田御城)
へ退去させ、城下にいた侍、1,000人も退去させています。
不動院は、舌状台地上の先端に位置する江戸崎城の
戦術的な防衛拠点であり、かつ祈願寺ですから霊的な
守護でもあったと思われますが、これを奪われたこと
で、あえなく城が落城しています。
『逢善寺文書』の「恵心流次第事」の定珍注記部分(№38)
には、江戸崎に会津の芦名盛重が入部し、同道して稲荷堂
随風(天海)がやって来て、その取り成しにより逢善寺
の寺門をつなぐことができたことや、土岐治綱が下総国
の須田の牢に押し込められていることなどが記されています。
この逢善寺・定珍の記述が、一次史料として最も早い
随風(天海)の記述だと考えられており、これが比叡山
や天台宗でも名の知られた名僧・定珍と天海の出会い
だったと考えられます。
天海が入寺する直前の不動院の様子
前回は、会津の芦名氏が摺上原で伊達政宗に敗れ、
会津を落ちて常陸国の佐竹氏の元に身を寄せたこと。
天海(随風)が、先祖伝来の三浦氏の宝刀・海老鎖切を
帯びて、伊達氏の追撃の兵に対峙し、これを一喝して
退かせた、という伝えのあることを紹介しました。
今回は、天海が江戸崎にやってくる直前の様子について
見てみたいと思います。
天正18年(1590)、豊臣秀吉は小田原の北条氏を攻め
滅ぼします。この小田原合戦の際、江戸崎の土岐氏は
小田原方に付いたことから、攻撃を受けることに
なります。
『臼田文書』の「臼田左衛門尉覚書」(№37)は、
江戸崎城の落城の様子を伝える同時代の史料とされて
います。
これによると、天正18年5月19日に神野覚助が江戸崎に入り、
まず第一に不動院を占領します。すると翌20日には、
江戸崎城は落城し、土岐殿(治綱)を高田須(高田御城)
へ退去させ、城下にいた侍、1,000人も退去させています。
不動院は、舌状台地上の先端に位置する江戸崎城の
戦術的な防衛拠点であり、かつ祈願寺ですから霊的な
守護でもあったと思われますが、これを奪われたこと
で、あえなく城が落城しています。
『逢善寺文書』の「恵心流次第事」の定珍注記部分(№38)
には、江戸崎に会津の芦名盛重が入部し、同道して稲荷堂
随風(天海)がやって来て、その取り成しにより逢善寺
の寺門をつなぐことができたことや、土岐治綱が下総国
の須田の牢に押し込められていることなどが記されています。
この逢善寺・定珍の記述が、一次史料として最も早い
随風(天海)の記述だと考えられており、これが比叡山
や天台宗でも名の知られた名僧・定珍と天海の出会い
だったと考えられます。