稲敷資料館日々抄

稲敷市立歴史民俗資料館の活動を広く周知し、文化財保護や資料館活動への理解を深めてもらうことを目的にしています。

特別展「常刕江戸崎不動院」の見どころ!(13)

2022年03月10日 | 日記
不動院と天海と東照三所大権現(4)

天海と妙法院門跡のやりとり

不動院に入った随風(天海)は、いつの頃からか
佐竹義宣や内府(徳川家康)の寺を管理する立場に
なっていたようです。

そのような時に、京都にある天台宗三門跡の一つ、
妙法院と手紙のやり取りをしています。

妙法院といいますと、中々知っている方は少ないかも
しれませんが、現在は三十三間堂を所有・管理している
お寺だというと、よくお分かりになるかと思います。

随風と署名する手紙が一通と天海と署名する手紙が三通、
合わせて四通の手紙を天海は妙法院に送り、それが今日
『妙法院文書』(№43)として遺されています。

いずれも年紀が記されていないのですが、不動院随風
から不動院天海と名を改めた時期でもあり、且つ天海
が一次史料に現れ始まる時期の、まとまった史料なので
とても重要なものです。

当時の妙法院御門主は、常胤法親王でした。

実際に天海が書簡のやり取りをしたのは、妙法院の坊官
仁秀でしたが、妙法院としては、不動院や常陸国の寺院
に対し、天台宗の密教の一つである蓮華流の灌頂執行を、
比叡山にて華々しく挙行したいので、この一切を負担し
て準備・実行せよ、というようなものでした。

この頃の天台宗では、同じ三門跡の一つ青蓮院が三昧流
の灌頂執行を常陸国黒子千妙寺によりおこなっており、
妙法院としても、同様の一大事業を執行し、その力を
示したいと考えたのかもしれません。

しかし、この当時の不動院はというと、天正18年(1590)
に天海が江戸崎に入った際には、江戸崎城攻めの本陣が
置かれ、荒れ果ててしまったようで、翌19年に改修が
終わるまで天海は不動院に入れす、町寺中の華蔵院に
住んだと伝えられるほどでした。

妙法院の坊官・仁秀あての手紙でも、天海は常陸国の寺
が荒廃して、遠く離れた叡山での灌頂執行をおこなうこと
が困難であることや、それでも不動院が関東における
妙法院の末寺頭としての立場を得ること、自身の出世を
望むことなどが書かれています。

天海は、元亀2年(1571)に織田信長による焼き討ちの
後、甲斐の武田信玄や、会津の芦名盛氏、江戸崎の芦名
盛重と、出会いと流転を繰り返してきましたが、荒廃し
た比叡山を復興させるという壮大な志は、天台宗僧侶
として、常に心の傍らにあったのだろうと思われます。

しかし、この時代の天海は、随風、蝙蝠沙門、無心と
所在無げで自嘲的な僧名を名乗るなど、思うように
いかない我が身に、一種の遣る瀬無さを感じていたのか
もしれませんね…。