江戸崎不動院の草創について(6)
静久は、不動院5世として、巨大な不動院本堂の移築や
両界曼荼羅図の整備など、江戸崎城主・土岐治英を壇越
に大事業を進め、不動院を土岐氏の祈願寺として整備し
たと考えられます。
また同時に江戸崎の土岐氏はこの頃、美濃の土岐宗家を
継承する時期と重なっています。
それまでの不動院の住職は、幸誉・幸儀・幸淳・幸憲と
皆、「幸」の字がつく僧侶でしたが、5世静久から
「幸」のつく僧侶が見られなくなります。
このようなことを、色々考えますと…この時期の江戸崎
は、一大転換期を迎えていたのでは?と考えられます。
江戸崎城は、舌状台地の先端に位置する戦国時代の城郭
ですが、その台地の付け根の部分に不動院が置かれ、
26.4m×13.6mもの巨大なお堂が移築されているのです。
江戸崎城主土岐治英の叔父、土岐頼香(よりたか)は、
天文13年(1544)、尾張の織田信秀の美濃進軍を防ぐ
ため、岳父斎藤利政(道三)の命により寺院を城塞化し
た、尾張無動寺城で防戦に当たりますが、夜襲を受け、
自害します。
治英が、この戦いを知っていたかは、分かりませんが、
その父、治頼は兄の土岐頼芸などから実弟の戦死を
伝え聞いていたかもしれません。
江戸崎城の絵図面を見ても、不動院は舌状台地の付け根
に位置し、ここが急所と見受けられます。
ですから、土岐治英は、そのような要所に軍事上の拠点、
かつ霊的守護として不動院を配置したのかもしれませんね。
実際に、天正18年(1590)の江戸崎城落城の際、攻め手
の神野覚助は、真っ先に不動院を占領し、その翌日には
江戸崎城を落としています。
この時、不動院にどのような被害があったのか記録は
残っていませんが、同年、随風(天海)が芦名盛重と
共に江戸崎に入りましたが、不動院が荒廃して入院でき
ず、不動院修築の間、江戸崎新宿の華蔵院に住んだと
地元では伝えられています。
華蔵院には、慈眼大師加持井銘の碑が建立され、その井戸
は星見井の名もあるそうです。
こうして、天海が修築を終えた不動院に入ったのは、
翌天正19年(1591)のことと伝えられています。
静久は、不動院5世として、巨大な不動院本堂の移築や
両界曼荼羅図の整備など、江戸崎城主・土岐治英を壇越
に大事業を進め、不動院を土岐氏の祈願寺として整備し
たと考えられます。
また同時に江戸崎の土岐氏はこの頃、美濃の土岐宗家を
継承する時期と重なっています。
それまでの不動院の住職は、幸誉・幸儀・幸淳・幸憲と
皆、「幸」の字がつく僧侶でしたが、5世静久から
「幸」のつく僧侶が見られなくなります。
このようなことを、色々考えますと…この時期の江戸崎
は、一大転換期を迎えていたのでは?と考えられます。
江戸崎城は、舌状台地の先端に位置する戦国時代の城郭
ですが、その台地の付け根の部分に不動院が置かれ、
26.4m×13.6mもの巨大なお堂が移築されているのです。
江戸崎城主土岐治英の叔父、土岐頼香(よりたか)は、
天文13年(1544)、尾張の織田信秀の美濃進軍を防ぐ
ため、岳父斎藤利政(道三)の命により寺院を城塞化し
た、尾張無動寺城で防戦に当たりますが、夜襲を受け、
自害します。
治英が、この戦いを知っていたかは、分かりませんが、
その父、治頼は兄の土岐頼芸などから実弟の戦死を
伝え聞いていたかもしれません。
江戸崎城の絵図面を見ても、不動院は舌状台地の付け根
に位置し、ここが急所と見受けられます。
ですから、土岐治英は、そのような要所に軍事上の拠点、
かつ霊的守護として不動院を配置したのかもしれませんね。
実際に、天正18年(1590)の江戸崎城落城の際、攻め手
の神野覚助は、真っ先に不動院を占領し、その翌日には
江戸崎城を落としています。
この時、不動院にどのような被害があったのか記録は
残っていませんが、同年、随風(天海)が芦名盛重と
共に江戸崎に入りましたが、不動院が荒廃して入院でき
ず、不動院修築の間、江戸崎新宿の華蔵院に住んだと
地元では伝えられています。
華蔵院には、慈眼大師加持井銘の碑が建立され、その井戸
は星見井の名もあるそうです。
こうして、天海が修築を終えた不動院に入ったのは、
翌天正19年(1591)のことと伝えられています。