目の前に助けを求める人が現れた時、後先考えず手を差し伸べられる大人はどれほどいるだろう。
網膜硝子体手術の分野で世界でも屈指の腕をもつ服部匡志医師は、病に苦しむ外国の人の声をきき、自の仕事を捨て、海を渡る。
以来20年、現地で貧しい患者たちに無報酬、ときには自腹で手術を行い、後進を育ててきた。
父が最期の力で綴った遺書
「お母ちゃんを大切にしろ。
人に負けるな。
努力をしろ。
人のために生きろ。」
これが高校二年生のときです。成績は芳しく無く、四浪の末になんとか京都府立医科大学に入れました。入学後も優等生ではなくて、ろくに講義にでず、私塾を開いて受験指導に熱中していたんです。
教わった先生方が皆素晴らしかったですね。派遣先の多根記念眼科病院で僕を指導してくれた真野富也先生も人徳ある方でした。
「はっちゃん、目ン玉だけ診っとたらあかんで。ちゃんと人として診なあかん。」
これが最初に教えられたことでした。
約半年で先生に手術を許され、2年後、母校の関連病院に移りましたけど、ここでは勉強より苦しむことが多かったですね。
50代の男性の手術のときでした。執刀医の先輩の手技が明らかにおぼつかなく、患者さんの目が出血は始めたので、堪らず声をかけると、「うるさい、黙っていろ」の一言。
手術開始から六時間後、患者さんの網膜は完全に剥離し、眼球は血で覆われてしまいました。
医療ってなんだろうと、誰もいなくなった病室で途方に暮れました。
翌日、その患者さんに「先生、私の眼、見えるようになるんですか」と訊かれて、「しばらく様子をみましょうね。」としか答えられませんでした。
もう心が痛くて。
散々葛藤した末に大学の関連病院を離れる決意をし、伝手を辿って全国の病院へ武者授業に出ました。
網膜硝子体の手術数で九州トップを誇る聖マリア病院では大塩善幸先生に師事し、先駆的だった内視鏡手術を習得できたんです。
その後、静岡の病院に勤めて三年半の頃でした。何千万という報酬をいただいていて、皆に、「辞めるなんてありえない」と反対されました。
でも、僕はエリートじゃないし、権力闘争や傲慢な医師が存在する世界を脱したかった。
自分の技術で困っている人を救えるなら冒険してみようと。
「人の役に立つ仕事をしろ」
親父の遺言が蘇ってきました。
数日後には辞表をだし、三ヶ月限りのボランティアだからと妻に約束して、2002年4月9日、名古屋から飛行機に乗ったんです。
僕が赴任したのは、最初に言っていたように国内最大の眼科専門病院でした。
といっても、手術機器は時代遅れの古いものばかりで、政府に申請しても時間がかかるから、自分で買うしかありありませんでした。
手術は難航し、何度も諦めそうになりました。
でも、あと少し頑張ってこの子の人生が変わるなら、やるしかない。
そう思い直してしばらく続けると、奇跡的ん厄介な増殖膜が取れ始め、手術開始三時間で少女の眼に光が戻ったんです。
絶望が希望に変わる瞬間でした。
二十年で網膜硝子体手術では約30人、白内障手術では約50人の現地医師を育ててきましたが、幸いコロナの制限も緩和されてきた、ハノイ医科大学病院などほうぼうから指導の依頼が来ています。
僕はもうすぐ還暦を迎えます。
海外滞在が長いから国民年金の額も高かが知れていて、残りの人生どう転ぶかわかりません。
人の評価はどうにもできませんが、道を拓く根本は自分の信念だと思います。
信念さえぶれずに貫いていけば、誰かが助けてくれうこともある。
僕の命は眼科医療を通して貧しい人に光をもたらすこと、そのためにあるんじゃないかな。
命が尽きるまではこの道を往かなきゃならないと意気を新たにしています。
saitani
網膜硝子体手術の分野で世界でも屈指の腕をもつ服部匡志医師は、病に苦しむ外国の人の声をきき、自の仕事を捨て、海を渡る。
以来20年、現地で貧しい患者たちに無報酬、ときには自腹で手術を行い、後進を育ててきた。
父が最期の力で綴った遺書
「お母ちゃんを大切にしろ。
人に負けるな。
努力をしろ。
人のために生きろ。」
これが高校二年生のときです。成績は芳しく無く、四浪の末になんとか京都府立医科大学に入れました。入学後も優等生ではなくて、ろくに講義にでず、私塾を開いて受験指導に熱中していたんです。
教わった先生方が皆素晴らしかったですね。派遣先の多根記念眼科病院で僕を指導してくれた真野富也先生も人徳ある方でした。
「はっちゃん、目ン玉だけ診っとたらあかんで。ちゃんと人として診なあかん。」
これが最初に教えられたことでした。
約半年で先生に手術を許され、2年後、母校の関連病院に移りましたけど、ここでは勉強より苦しむことが多かったですね。
50代の男性の手術のときでした。執刀医の先輩の手技が明らかにおぼつかなく、患者さんの目が出血は始めたので、堪らず声をかけると、「うるさい、黙っていろ」の一言。
手術開始から六時間後、患者さんの網膜は完全に剥離し、眼球は血で覆われてしまいました。
医療ってなんだろうと、誰もいなくなった病室で途方に暮れました。
翌日、その患者さんに「先生、私の眼、見えるようになるんですか」と訊かれて、「しばらく様子をみましょうね。」としか答えられませんでした。
もう心が痛くて。
散々葛藤した末に大学の関連病院を離れる決意をし、伝手を辿って全国の病院へ武者授業に出ました。
網膜硝子体の手術数で九州トップを誇る聖マリア病院では大塩善幸先生に師事し、先駆的だった内視鏡手術を習得できたんです。
その後、静岡の病院に勤めて三年半の頃でした。何千万という報酬をいただいていて、皆に、「辞めるなんてありえない」と反対されました。
でも、僕はエリートじゃないし、権力闘争や傲慢な医師が存在する世界を脱したかった。
自分の技術で困っている人を救えるなら冒険してみようと。
「人の役に立つ仕事をしろ」
親父の遺言が蘇ってきました。
数日後には辞表をだし、三ヶ月限りのボランティアだからと妻に約束して、2002年4月9日、名古屋から飛行機に乗ったんです。
僕が赴任したのは、最初に言っていたように国内最大の眼科専門病院でした。
といっても、手術機器は時代遅れの古いものばかりで、政府に申請しても時間がかかるから、自分で買うしかありありませんでした。
手術は難航し、何度も諦めそうになりました。
でも、あと少し頑張ってこの子の人生が変わるなら、やるしかない。
そう思い直してしばらく続けると、奇跡的ん厄介な増殖膜が取れ始め、手術開始三時間で少女の眼に光が戻ったんです。
絶望が希望に変わる瞬間でした。
二十年で網膜硝子体手術では約30人、白内障手術では約50人の現地医師を育ててきましたが、幸いコロナの制限も緩和されてきた、ハノイ医科大学病院などほうぼうから指導の依頼が来ています。
僕はもうすぐ還暦を迎えます。
海外滞在が長いから国民年金の額も高かが知れていて、残りの人生どう転ぶかわかりません。
人の評価はどうにもできませんが、道を拓く根本は自分の信念だと思います。
信念さえぶれずに貫いていけば、誰かが助けてくれうこともある。
僕の命は眼科医療を通して貧しい人に光をもたらすこと、そのためにあるんじゃないかな。
命が尽きるまではこの道を往かなきゃならないと意気を新たにしています。
saitani