飛耳長目 「一灯照隅」「行雲流水」

「一隅を照らすもので 私はありたい」
「雲が行くが如く、水が流れる如く」

「正義と微笑」太宰治 勉強とは?

2024年09月03日 05時25分12秒 | 教育論
太宰治の小説に「正義と微笑」という作品がある。
これは太宰が 31歳のころに書いたと短編小説である。

この作品は通常の小説とは形式が違っていて、「日記形式」をとっているところに特徴がある。
16歳の学生である主人公が書いた日記。
その内容は、日々の生活や自分の感情、将来への渇望を事細かに綴ったもの。

その文章の中に勉強について、登場人物の黒田先生が述べている部分がある。
黒田先生は英語の授業中、自分から教師を辞めると唐突に宣言する。
その際以下のような言葉を生徒たちに投げかける。

以下、引用。

「もう君たちとは逢えねえかも知れないけど、お互いに、これから、うんと勉強しよう。
 勉強というものは、いいものだ。
 代数や幾何の勉強が、学校を卒業してしまえば、もう何の役にも立たないものだと思っている人もあるようだが、大間違いだ。
 植物でも、動物でも、物理でも化学でも、時間のゆるす限り勉強して置かなければならん。
 日常の生活に直接役に立たないような勉強こそ、将来、君たちの人格を完成させるのだ。
 何も自分の知識を誇る必要はない。
 勉強して、それから、けろりと忘れてもいいんだ。
 覚えるということが大事なのではなくて、大事なのは、カルチベートされるということなんだ。
 カルチュアというのは、公式や単語をたくさん暗記している事でなくて、心を広く持つという事なんだ。
 つまり、愛するという事を知る事だ。
 学生時代に不勉強だった人は、社会に出てからも、かならずむごいエゴイストだ。
 学問なんて、覚えると同時に忘れてしまってもいいものなんだ。
 けれども、全部忘れてしまっても、その勉強の訓練の底に一つかみの砂金が残っているものだ。
 これだ。
 これが貴いのだ。勉強しなければいかん。
 そうして、その学問を、生活に無理に直接に役立てようとあせってはいかん。
 ゆったりと、真にカルチベートされた人間になれ! これだけだ、俺の言いたいのは。」

引用終わり。

この中の「学問なんて、覚えると同時に忘れてしまってもいいものなんだ。けれども、全部忘れてしまっても、その勉強の訓練の底に一つかみの砂金が残っているものだ。これだ。これが貴いのだ。」という言葉を読んだときに思い出した一節がある。

いつも自分は考えていた。
「教育の意味はなんだろう。」
「教育とはいったいなんなのか。」
そんなときにこの言葉と出会うことになる。

アインシュタインの言葉。
「学校で学んだことを一切忘れてしまった時になお残っているもの、それこそ教育だ」

そもそも学校で勉強したことをすべて覚えている人はいない。
受験勉強で寝食を忘れて必死になって覚えたことの殆どは忘れてしまった。
しかし、自分の夢や目標に向かってひたすら前を向き続けた日々や思いや今もはっきりと思い出せる。
世の中には報われない努力もあるということや努力は素晴らしいことではあるが苦しいものだということも身をもって学んだ。

長い教師人生の中で出会った多くの子供達。
その子どもたちに自分は「一つかみの砂金」と呼べるものをあげることできたのだろうかと自問する。

また、アインシュタインはある取材で、記者に光速度を聞かれて、答えることができなかったことがあるそうだ。
そのとき、記者はアインシュタインが光速度を覚えていないと揶揄した。
だが、アインシュタインは「本やノートに書いてあることをどうして憶えておかなければならない?」と答えた。

このエピソードも教育の本質を物語っているように感じる。

「正義と微笑」に出てくるカルチベートという言葉は、本来耕すとか、ほぐすという意味だった。
それが、磨くとか、高める、洗練させるという教育的意味も持つようになった。
まいた種子(教養)が成熟して実り(成長)につながるという一連の流れが、教育にも農業にも同じようなところがあるから、耕すだけでなく、教育的意味をもったものと想像できる。

小説の中の黒田先生は、カルチベートが大切なんだと別れに際にして訴えたのである。

saitani

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