田中角栄氏が没して30年近い時間が過ぎた。氏は金権政治の象徴との汚名を浴びているが,いま日中国交正常化50周年を機会に,日中国庫回復に尽力した氏の業績を歴史に刻みたい。そんな思いから,自分なりに政治家田中角栄の人となり,さらには2年5ヵ月の内閣を担った期間の足跡分析を通じて,今につながる田中政治の成果を洗い出し,このブログを書いている。
◆毛沢東との会見で,日中国交正常化交渉はヤマを超えた。
1972年9月27日,午後4時20分から午後6時50分まで第3回の首脳会談が行われた。会議を終えた午後7時半すぎ,突然,「毛沢東が会うことになった」との入り,急遽,田中首相,大平外相,二階堂官房長官らが,中南海(ちゅうなんかい)にある毛沢東邸訪問となった。
このときに毛沢東は,田中に会うなり,「もうケンカはすみましたか。ケンカしなくちゃダメですよ。ケンカしてはじめて仲よくなるのです」と話しかけた。田中は「周首相とは円満に話し合っております」と応じた。
中国を訪れた国賓クラスの各国首脳とてめったに毛沢東に会えるわけではなく、加えてその会話が紹介されることなどなかったから、田中との会談でこういう親しいやりとりが行われたのは国際社会を驚かせた。
この毛沢東との会見に至る中国側の思惑を,昭和史研究家 保阪正康氏は,著書『田中角栄の昭和』p272~274で,次のように解明している。
" 毛沢東が予定を変更して突然、会見時間を設定したのは、田中の会話であれば毛沢東と会わせることで、むしろ中国側が大人の対応をとっているとの印象を撒くことが可能と判断したからとも思える。少なくとも中国側の指導者は田中の性格や考え方、発想の回路,歴史観を検分したうえでの対応をとったと思えるのである。”
つまり,田中氏は性格的に姑息な策を弄するタイプではなく,率直にして大胆な性格の持ち主であると,評価したのである。
この会見で,日中国交正常化交渉は事実上をヤマを超えた。