窓際日記・福島原発

窓際という仕事の雑感

日米軍事協定

2025-03-10 09:10:12 | Weblog

日本の軍事面における極端な対米従属構造。また、世界でおそらくほかに韓国しか例のない、あまりに巨大で異常な駐留米軍のもつ法的特権。

ずっと「なぜ日本だけ、こんなにひどい状況なんだ」と思い続けてきたその原因が、指揮権密約の歴史をたどることで、はっきりわかったということです。

一言でいうと、その原因はすべて朝鮮戦争にあったということです。

朝鮮戦争というのは、日本でもアメリカでも「忘れられた戦争」といわれており、私自身、あまり具体的な印象がありません。しかし、じつはそれは、戦後世界の行方を決めた大戦争で、とくに「戦後日本」にとっては、まさに決定的といえるほど重要な意味を持つ戦争だったのです(朝鮮戦争は現在も休戦中で、法的にはまだ戦争は終わっていません)。

振り返ってみれば、日本の独立をちょうど真ん中にはさんだ前後3年(1950〜53年)のあいだ、アメリカはすぐとなりの朝鮮半島で激戦を繰り広げていたわけですから、それが安保条約や行政協定の内容に影響を与えていないはずがありません。

けれども私もなぜか、安保条約や行政協定の条文を読むときに、これまで朝鮮戦争のことを関連づけて読んだことはありませんでした。

しかし、もちろん当然のことながら、朝鮮戦争の戦況は、ひとつひとつの条文にも非常にダイレクトな影響を与えていたのです。

危機に陥った米軍
1950年6月25日に始まったこの戦争で、日本から出撃していった米軍(朝鮮国連軍)は当初、徹底的に負けるわけです。それはマッカーサーの判断ミスで、北朝鮮が南に攻めてくることなど絶対にないと考えていたため、敵を迎え撃つ準備がまったくできていなかったからでした。

そのため米軍は開戦からわずか1ヵ月余りで、朝鮮半島南端の釜山周辺の一角まで追いつめられてしまう。あやうく対馬海峡にたたき落とされそうな状況にまで陥ってしまったのです。

しかし、それでも米軍は負けなかった。それは対馬海峡の対岸にある日本から、どんどん武器や弾薬や兵士たちが送りこまれていたからで、「兵站が続けば戦争は負けない」という軍事上のセオリーの、まるで教科書のような戦況だったわけです。

そして有名なマッカーサーの仁川上陸作戦(9月15日)もあって、一度、中国国境近くまで押し返したものの、中国軍が参戦したことでまた38度線あたりまで後退させられる。

米軍にとってそれは、「歴史上もっとも困難をきわめた戦争のひとつ」だったのです。

さまざまな戦争支援
そうした状況のなか、連合国軍という名のアメリカ陸軍に占領されていた日本は、さまざまなかたちでこの戦争への協力を求められることになりました。敗戦時にポツダム宣言を受け入れていた日本は、連合国軍最高司令官であるマッカーサーに対して、その要求を拒否する法的権利を持っていなかったからです。

そのため、朝鮮半島への上陸作戦で機雷を除去するための掃海艇の派遣や、米軍基地に配備するための警察予備隊(7万5000人)の創設、さらには米兵や軍事物資の輸送、武器や車両の調達や補修など、まさに国をあげての戦争支援を行ったのです。

おかげで「朝鮮特需」といわれる巨額の経済的利益がもたらされ、まだ復興の途上にあった日本経済を大きく潤すことになりました。

そして、朝鮮戦争の開戦から7ヵ月後(1951年1月)に始まった、日本の独立に向けての日米交渉のなかで、日本は当時、朝鮮戦争に関して行っていた、そうしたさまざまな米軍への軍事支援を、「独立後も変わらず継続します」という条約を結ばされてしまうことになったのです。

それが1951年9月8日、平和条約や旧安保条約と同時に交わされた「吉田・アチソン交換公文」という名の条約です。でもおそらく読者のみなさんは、どなたもそのことをご存じないでしょう。もちろん当時の国民も、その取り決めが持つ本当の意味について、だれひとりわかっていませんでした。

解説 吉田・アチソン交換公文
写真:現代ビジネス

このきわめて重大な取り決めは、サンフランシスコ平和条約や旧安保条約と同じ1951年9月8日に、アメリカのサンフランシスコ市で結ばれました。「交換公文」とは、政府の責任者間で書簡を往復させたという形をとった広義の条約のひとつです。

旧安保条約と同じく「吉田・アチソン交換公文」もまた、事前には日本国民にいっさいその内容が知らされない「事実上の密約」として結ばれたものでした(アチソンとは平和条約にも旧安保条約にもサインした、当時のアメリカの国務長官の名前です)。

というのも、日本の占領を終えるにあたって、米軍の駐留継続(旧安保条約)や、米軍への軍事支援の継続(吉田・アチソン交換公文)を交換条件とすることは、ポツダム宣言にも国連憲章にも違反する行為だったからです。そのため平和条約によって独立を回復した日本が、あくまで自由な意志に従ってそれらの取り決めを結ぶというフィクションが、アメリカ側の交渉責任者であるダレスによって作られていたのです。

ですから、サンフランシスコの豪華なオペラハウスで平和条約が結ばれた9月8日午前の時点では、まだそれらの文書は存在しないことになっていました。ところが実際には、もちろん条文は用意されていて、その日の午後5時からサンフランシスコ郊外の米軍基地内で、吉田首相ひとりの署名によってこの2つの取り決めが結ばれたわけです。

そもそも当初の日米交渉の段階で、アメリカ側から提案された「吉田・アチソン交換公文」の原文は、次のようなものでした。

「〔平和条約と旧安保条約が発効したときに〕もしもまだ国連が朝鮮で軍事行動を続けていた場合は、日本は、国連が朝鮮の国連軍を以前と同じ方法で、日本を通じて支援することを認める」(1951年2月9日)

詳しくは『日本はなぜ、「戦争ができる国」になったのか』を読んでいただきたいのですが、ここで最も重要なポイントは、右の傍点部分にある「朝鮮の国連軍」も、それを日本を通じて支援する「国連」も、その実態は米軍そのものだということです。

つまりは朝鮮戦争の開始以来、占領軍からの指示によって行っていた米軍への兵站活動(後方支援)を、独立後も変わらず続けるというのが、この「吉田・アチソン交換公文」の持つ本当の意味だったのです。

その後の日米交渉のなかで、この取り決めはさらに改悪され、「朝鮮」という地域的な限定も、「国連」という国際法上の限定も、ほとんどなくなってしまいました。

その結果、現在に至るまで日本は、米軍への戦争協力を条約で義務づけられた世界で唯一の国となっているのです。

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アメリカは「国」ではなく、「国連」である
こうして指揮権密約の歴史をさかのぼったことで、戦後、日米のあいだで結ばれた無数の軍事的な取り決めの、大きな全体像が見えてきました。その重要な手がかりとなったのが、朝鮮戦争のさなかにつくられた、米軍が自分で書いた旧安保条約の原案だったのです(1950年10月27日案)。

この原案の中にあった指揮権に関する条文については、すでにお話ししました。

では、基地権については、そこではどのように書かれていたのでしょう。

「第2条 軍事行動権」と題されたその条文を見てみると、左のようにそこには日米安保の本質が、やはり非常に明快に表現されていたのです(以下、同2条から要点を抜粋。〔 〕内は著者の解説。https://history.state.gov/historicaldocuments/frus1950v06/pg_1337)。

「米軍原案」の基地権条項
○ 日本全土が防衛上の軍事行動のための潜在的地域とみなされる。

〔これがいわゆる「全土基地方式」のもとになった条文です。米軍が日本国内で、どこに基地を置こうと、どんな軍事行動をしようと、日本側は拒否できないということです〕

○ 米軍司令官は必要があれば、日本政府へ通告したあと、軍の戦略的配備を行う無制限の権限を持つ。

〔他国(日本)への軍の配備について「無制限の権限を持つ」とは、スゴい表現です。この条文とその前の「全土基地方式」の条文が「アメリカは、米軍を日本国内およびその周辺に配備する権利を持つ」という旧安保条約・第1条のもとになっています〕

○ 軍の配備における根本的で重大な変更は、日本政府との協議なしには行わないが、戦争の危険がある場合はその例外とする。

〔核兵器の配備など「重大な変更」については、米軍は日本政府との「協議なしには行わない」と書かれています。しかしこの表現は「合意なしには行わない」とは違って、日本の意向だけでは拒否できないという意味でもあるのです。さらに戦争の危険があるときは、核の地上配備だろうとなんだろうと、日本側と協議などまったくしないという方針が、はっきりと書かれています。

これが日米安保の本質です。そしてその本質を国民の目から隠すために、これまで多くの日本の首相たちが、アメリカとの「核密約」や「事前協議密約」を結び続けてきたのです〕

○ 平時において米軍は、日本政府へ通告したあと、日本の国土と沿岸部で軍事演習を行う権利を持つ。

〔戦争の危険性がまったくないときでも、米軍は日本政府に一方的に「通告」すれば、日本全土とその沿岸部で自由に軍事演習を行うことができるということです。「協議」をする必要もない。この条文こそが、まさに2020年以降、日本全土で始まろうとしている危険なオスプレイによる低空飛行訓練の正体なのです〕

日本の戦後を貫く方程式
このように、米軍が書いたこの旧安保条約の原案には、指揮権についても基地権についても、非常にリアルな日米安保の本質が記されています。

そしてこの「米軍原案」と、第5章でお話しした「密約の方程式」を組みあわせれば、その後70年近くのあいだに日米間で起きた無数の軍事上の出来事を、すべてひとつの大きな流れのなかに位置づけることができるのです。

思い出していただきたいのですが、戦後の日米間の軍事上の取り決めを貫く基本法則は次のとおりでした。

「古くて都合の悪い取り決め」=「新しくて見かけのよい取り決め」+「密約」

そして1950年10月の「米軍原案」が、その後わずかな訂正だけで正式な日米交渉の場に提出されたという事実を考えあわせると、戦後、日米間で結ばれたすべての条約、協定、密約を、具体的な条文レベルで次のように整理することができるのです。

「米軍自身が書いた旧安保条約の原案」=「戦後の正式な条約や協定」+「密約」

この式にあてはめてみると、これまで不思議でしかたがなかった、ほとんどの謎がスッキリ解けてしまいます。軍事面からみた「戦後日本」の歴史とは、つまりは米軍が朝鮮戦争のさなかに書いたこの安保条約の原案が、多くの密約によって少しずつ実現されていく、長い一本のプロセスだったということができるでしょう。

そのもっとも典型的な例が、2015年に大問題となった安保関連法でした。前章で述べたとおり、この1950年10月の「米軍原案」に書かれていた海外派兵についての条文が、なんと65年もの時を経て、ついにあのとき、オモテの国内法として成立してしまったわけです。

もちろん、歴代の首相や大臣、官僚のなかには、この大きな流れに抵抗しようとした人もいれば、積極的に推し進めることで個人的な利益を得ようとした人もいたでしょう。

しかしその無数の人間ドラマもまた、軍事面から見れば、この米軍原案が長い時間をかけて少しずつ実現していくプロセスの一コマでしかなかった。それが日本の戦後史だったということです。

悲しい現実ですが、事実はきちんと見たほうがいい。事実を知り、その全体像を解明するところからしか、事態を打開する方策は生まれてこないからです。反対運動でその違法なプロセスの進行を遅らせているあいだに、その法的な構造を体系的に解明し、根本的な解決策を考えださなければならないのです。

じつは安保条約での集団的自衛権を拒否し続けていたアメリカ
たとえば2015年の安保関連法案の国会審議のとき、大きな焦点となった集団的自衛権の問題があります。あのとき国会前のデモでは、若い学生のみなさんが中心となって、

「憲法まもれ」

「安倍はやめろ」

といったコールを連日繰り返していました。私も何度か行って声を張り上げましたが、

「集団的自衛権はいらない」

というコールだけは、一緒に言えませんでした。

なぜなら1951年1月末から始まった日米交渉のなかで、旧安保条約をなんとか国連憲章の集団的自衛権にもとづく条約にしようと、必死で交渉していたのが日本側のほうで、それを一貫して拒否しつづけていたのがアメリカ側だったことを、私はよく知っていたからです。

そしてその両者の関係は、のちの安保改定においても、基本的に変わることはありませんでした。

NATOと「日米同盟」の違い
写真:現代ビジネス

いったいそれは、どういうことなのか。

事実、肥田進・名城大学名誉教授(日本におけるジョン・フォスター・ダレス研究の第一人者)の分類を見ると、かつてアメリカが集団的自衛権にもとづく安全保障条約を結んだのは、彼らにとって死活的に重要な意味をもつ中南米(米州機構)とヨーロッパ(NATO)の、しかも多国間の条約に限られていて、それ以外の「相互防衛条約」は、基本的にすべて個別的自衛権にもとづいて協力しあう関係でしかありません。

「そんな話、はじめて聞いたぞ」という方もいらっしゃるかもしれませんが、アメリカが各国と結んでいる条約の条文を見れば、それは疑いようのない事実なのです。

たとえばNATOの条文(北大西洋条約)には、ある加盟国が攻撃を受けた場合、それを全加盟国に対する攻撃と認識して、

「個別的または集団的自衛権を行使し、兵力の使用を含んだ必要な行動をただちにとる」

と書かれています(第5条)。これが「集団的自衛権」にもとづく相互防衛条約です。

一方、日本の新安保条約(第5条)などアジア地域の条約には、特定地域(たとえば太平洋地域など)内での加盟国への攻撃が、

「自国の安全を危うくするものであることを認め」

「自国の憲法の規定と手続きにしたがって、共通の危険に対処する」

としか書かれておらず、必ず相手国を守るために戦うとは約束されていません。それがあくまで「個別的自衛権にもとづいて協力しあう関係」でしかないことは、明らかなのです。

安保改定交渉の真っ最中だった1959年6月に、本国の国務省からマッカーサー大使に送られた電報には、この「自国の憲法の規定と手続きにしたがって」という表現について、「〔われわれ国務省が〕長期にわたる慎重な研究の結果、到達したものだ」と書かれています。つまり「相互防衛条約」とはいいながら、相手国への最終的な防衛義務は負わない条文を、意図的に考えだしたということなのでしょう。

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