マスカラスの2大必殺技といえば、ダイビング・ボディアタックとフライング・クロスチョップだ。ルチャ用語でプランチャとトペである。この2つの技とも日本初公開で、マスカラスによって輸入されてきた。昭和46年当時、その衝撃は凄かったのだ。まさに目を見張るにふさわしいスーパー・テクニックだった。写真はいずれも日本プロレス時代のものだ。
▲日本プロレス最後の来日でソリタリオをパートナーに、吉村道明に放っ . . . 本文を読む
マスカラスの生涯ベルトと称していいのが、IWA世界ヘビー級王座だ。これはアメリカ東部で設立された団体で、当時のWWFに対抗する形で誕生していった。初代チャンピオンとなったマスカラスは以降、このベルトを持って世界各地で防衛戦を行った。
ここに取り出した写真はそのIWA時代の珍しい写真だ。アーニー・ラッドやイワン・コロフといったヘビー級の猛者と対等に渡り合ったのが、マスカラスたる所以だった。
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”イス大王”こと栗栖正伸がメキシコ遠征していた80年代初頭、ルードという立場でマスカラスとも何度か対戦していたのだ。メキシコではヘビー級のトップだけに、マスカラスは栗栖をものともしなかった。今となっては貴重な写真となった。 . . . 本文を読む
今や大御所になったマスカラスだが、70年代はまだ30歳代だっただけに、この世界の大御所との顔合わせも多く実現している。特に日本では同じシリーズに参戦したガイコク人レスラーとのツーショットは貴重な限りだろう。
▲ボボ・ブラジルと並ぶ。昭和47年5月の写真だ。
▲テキサスでのライバルだったジョニー・バレンタインと。
▲2大正統派であったビル・ロビンソンと。 . . . 本文を読む
▲自宅を初めて雑誌で見せた。
▲ドス・カラスとの特訓風景も茨城さんの成せる業。
▲ALLLのベルトを巻いた勇姿。
今回はあのW★ING茨城清志代表が、海外通信員時代に撮影された写真の中から何枚か紹介しよう。茨城さんは月刊プロレスの編集者を経て、単身アメリカに渡り通信員となったこの世界の先駆者だ。「華麗なる世界」のパート2では巻頭から自宅を披露したり、ドス・カラスとのトレーニングも公開し . . . 本文を読む
この2枚の写真は私が初めのメキシコ旅行の際、エル・トレオのバックステージで撮影したマスカラスのポーズ写真だ。1990年12月30日というから、もう18年も前のことだ。メキシコ旅行の最終日に念願のトレオに行くことが出来た。メインカードはマスカラス&イホ・デル・サント&ティニエブラス親子vsブラソス&カネックだった。ブラソスもオロ、プラタ、エル・ボラソと揃っているのが、今となっては懐かしい。
私 . . . 本文を読む
マスカラスのゴングか、ゴングのマスカラスか…こんなフレーズでマスカラスを売りまくったのが、昭和時代のゴング誌だった。何しろ初めて掲載してから、初来日まで約3年間、ゴングはマスカラスの写真や記事を載せまくった。これもマスカラス番記者だった竹内宏介氏の、努力の成せる業でもあったのだ。
我々は”竹内ワールド”に酔い、マスカラスを追い続けた。ゴング誌は毎回、毎回、マスカラスを表紙に起用しその人気を煽 . . . 本文を読む
仮面貴族FIESTA開催まであと3週間を切りました。今回、紹介するのはマスカラスのリング衣装で、最も豪華で後世まで語り継がれているアステカ王朝の民族衣装だ。今から37年前に100万円と報じられていたが、これは格式が高かった。私も後楽園ホールで目のあたりにしたが、豪華絢爛。というより圧倒されたのだ。
少年ファンは係員やセコンドの若手を無視して、一斉にリングサイドに結集し、カメラのフラッシュが焚か . . . 本文を読む
覆面レスラーのマスクは神秘の印だ。ファンなら誰しもマスクを欲しくなるのが、自然の摂理。それがマスカラスとなると、もう別格である。全日本プロレス時代は日本テレビで、マスク・プレゼントを頻繁に行っていた。マスカラスのマスクを入手する方法はそれしか無かったからだ。
この写真は実際に送られたハガキを、マスカラス自身がチュイスしているものだ。これに代わって考えられたのが、オーバー・マスクである。プレゼン . . . 本文を読む
この写真は昭和53年夏のもの。月刊平凡という雑誌の取材で当時、大旋風を巻き起こしていたビューティー・ペアとマスカラスが対面した。月刊平凡はメジャー中のメジャー誌で、人気アイドルしか載せない敷居の高い雑誌だった。全女の広報担当だった私はこの取材を楽しみにして、ビューティー・ペアに付き添った。これはマスカラス・ファンとしては役得であったのだ。
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マスカラスとアンドレは世界を代表する2大スーパースターだった。アメリカでもメキシコでも、そして日本でも…このプロレス3大大国で多くのファンを獲得したのは、この二人だけだろう。ニューヨークでは超ベビーとして通し、メキシコではマスカラスと絡むことでアンドレは人気者の座に就いたのだ。マスカラスの凄いところは、どこの国の誰と対峙しても絶対に引かなかったことだ。
大抵のレスラーはアンドレには尻込みしたが . . . 本文を読む
マスカラスのライバルと言えば、グレート小鹿のイメージが強いが日本では多くの選手と激突した。ここに発掘された上田馬之助との試合はある意味貴重なものだ。日時場所はわからないが、天井だけが在る野外大会。写真だけ見ると、マスカラスは上田を自由自在に操り自分の世界に持ち込んだ。後年、金髪に染め日本人ヒールの先駆けとなった上田だけにオーソドックスな試合は懐かしいものだ。誰と対戦してもファイト・スタイルを崩さ . . . 本文を読む
マスカラスがまだ来日を果たす前、唯一対戦した日本人レスラーがグレート小鹿だった。1968~1970年頃にかけて頻繁に闘い、ロス地区のチャンピオン・ベルトを争ったり、因縁は金網デスマッチにまで発展した。”小鹿のスリーパーでマスカラスが失神!”何て記事を見た時は驚きと同時に、小鹿にも興味を持ったものだ。
何しろ私が物心付いた時、小鹿はもう海外遠征中で見たことの無い日本人レスラーであったからだ。よう . . . 本文を読む
ルチャ史上最大のエストレージャは21世紀になっても、断然サントである。他界してすでに25年も経つが、メキシコ人にとっては永遠の国民的ヒーローなのであろう。マスカラスはデビュー後、サントの再来と言われたが選んだ道は海外で活躍すること。そう、国際スターの地位を築いた別格だ。二人は何度もタッグを組んだこともあり、共に銀幕のスターでもあった。
正義の味方、悪を退治するマスクマン…日本では昭和30年代か . . . 本文を読む
来日まであと2カ月…そこでミル・マスカラスの業績を称える意味でも、来日までカテゴリーを作りました。題して、「来日記念!マスカラス蔵出し写真」です。ここでは、あえて白黒写真で紹介します。
マスカラスと猪木の遭遇は昭和46年2月の初来日と、8月の2度目の来日しかなかった。初来日では唯一のシングルマッチも1度だけ実現。この時は猪木が勝利した。インタータッグ、アジアタッグの両タイトルマッチでも、マスカ . . . 本文を読む