私は毎日、全女の事務所に通った。毎日、日替わりでスタッフが昼食を誘ってくれるし、本当に皆が良くしてくれた。夜は夜で、キャバレー三昧。こんなに面白い生活と遭遇できただけでもラッキーだった。不謹慎だが、母方の祖父が他界しても葬儀に行かず、全女での日々を謳歌していたほどだ。約1カ月ほど経つと、松永社長から「お前、そんなに好きなら社員にしてあげるから…」と言われた。何の用も言われずに、勝手に事務所に通い詰めた甲斐があったものだ。初任給は、8万円だった。カメラマンのアルバイトで、1回につき5万円貰っていたから、少々拍子抜けした。当時、入ったばかりの新人練習生が即、10万円の初任給を手にしていたからだ。私は千葉の実家から、東京の恵比寿に引っ越した。
正式に入社してから、私は総務部長だった黒川忠司(故人)さんの配下となった。すぐ上の上司には芸能部でビューティ・ペアの担当をする吉田正行さんがいて、リングアナの相沢建一さんが芸能部のチーフとして存在した。ビューティ・ペアの芸能活動のサポートをしながら、社内の雑用をこなしていく。ふと気が付くと、社内の人達は特にプロレスに関心があるわけでもなく、どちらかといえば興行専門の会社のようだった。まして全員年上だし、大人の世界に分けの分からぬ少年が迷い込んだ感じだ。
特にプロレスに詳しい人はいない。WWWAのタイトルマッチを開催しているのに、その記録さえ無い。幸い新聞記事のスクラップブックは、何冊かあった。私はそれを辿りながら、記録を繋いでいった。そうすることで、WWWAの正式な記録を作り上げたのである。根っからのプロレス・ファンだっただけに、タイトルマッチの記録は重要であった。まあ、団体に記録が無いこと自体が不思議だったが、それは社内にいたら当然の状況にも思えた。ビューティ・ペアの人気はピークに達し、ほとんど売り興行だったから、選手たちが東京に居ることは稀だった。後楽園ホール大会も年に数回しかなくて、もっぱら地方巡業。だから、選手と接することはあまりなく、事務所での生活が主となった。
年間6シリーズで、1シリーズは8週間。毎シリーズ、2名の外国人選手が来日した。少年時代から外国人レスラーに憧れていただけに、女子にも興味を持っていた。黒川さんのアシスタントとして、空港に送り迎えをしたり、休みには買い物の案内を買って出たりもした。78年から外国人のレフェリーがシリーズごとにやってきた。ソーニア・オリヤーナの兄のオスカー・オリヤーナ、ジェシー・オルテガ(ホセ・トレス)、ポロ・プラド、モーリス・ガリアーノといった南米系レフェリーがコーチ役も兼ねていた。
私はジェシーと親しくなり、よく行動を共にした。ジェシーはメキシコ人で、ドス・カラスと同期にあたるそうでラ・ボルケーノを名乗っていた。佐々木健介のマスク・バージョンと同名のルチャドールが、30年以上前に存在していたのだ。1度、ドス・カラスに会いに全日本の後楽園大会に訪ねていったこともあった。95年にはロスに行った際、このジェシーを呼んで数年ぶりに再会した。
ところでビューティ・ペアのブームって一体、どんか感じだったのだろうか?とにかく、どこも超満員が当たり前。浅草・国際劇場のビューティ・ペアショーは、3日間6公演のチケットが即日、完売。首都圏のオープンと称される野外興行は、空き地や駐車場でやっていたから2000~3000人の集客は日常的だった。野外で700万~800万円の売り上げはざらだった。(つづく)
▲入社後でも、サングラスを外さなかった。隣はビューティー・ファンクラブの女性。
▲左から若き日の阿部四郎、ナンシー久美、ルーシー加山、佐藤ちの。
▲弱冠20歳でまるでベテラン・マネジャーのような貫禄?
正式に入社してから、私は総務部長だった黒川忠司(故人)さんの配下となった。すぐ上の上司には芸能部でビューティ・ペアの担当をする吉田正行さんがいて、リングアナの相沢建一さんが芸能部のチーフとして存在した。ビューティ・ペアの芸能活動のサポートをしながら、社内の雑用をこなしていく。ふと気が付くと、社内の人達は特にプロレスに関心があるわけでもなく、どちらかといえば興行専門の会社のようだった。まして全員年上だし、大人の世界に分けの分からぬ少年が迷い込んだ感じだ。
特にプロレスに詳しい人はいない。WWWAのタイトルマッチを開催しているのに、その記録さえ無い。幸い新聞記事のスクラップブックは、何冊かあった。私はそれを辿りながら、記録を繋いでいった。そうすることで、WWWAの正式な記録を作り上げたのである。根っからのプロレス・ファンだっただけに、タイトルマッチの記録は重要であった。まあ、団体に記録が無いこと自体が不思議だったが、それは社内にいたら当然の状況にも思えた。ビューティ・ペアの人気はピークに達し、ほとんど売り興行だったから、選手たちが東京に居ることは稀だった。後楽園ホール大会も年に数回しかなくて、もっぱら地方巡業。だから、選手と接することはあまりなく、事務所での生活が主となった。
年間6シリーズで、1シリーズは8週間。毎シリーズ、2名の外国人選手が来日した。少年時代から外国人レスラーに憧れていただけに、女子にも興味を持っていた。黒川さんのアシスタントとして、空港に送り迎えをしたり、休みには買い物の案内を買って出たりもした。78年から外国人のレフェリーがシリーズごとにやってきた。ソーニア・オリヤーナの兄のオスカー・オリヤーナ、ジェシー・オルテガ(ホセ・トレス)、ポロ・プラド、モーリス・ガリアーノといった南米系レフェリーがコーチ役も兼ねていた。
私はジェシーと親しくなり、よく行動を共にした。ジェシーはメキシコ人で、ドス・カラスと同期にあたるそうでラ・ボルケーノを名乗っていた。佐々木健介のマスク・バージョンと同名のルチャドールが、30年以上前に存在していたのだ。1度、ドス・カラスに会いに全日本の後楽園大会に訪ねていったこともあった。95年にはロスに行った際、このジェシーを呼んで数年ぶりに再会した。
ところでビューティ・ペアのブームって一体、どんか感じだったのだろうか?とにかく、どこも超満員が当たり前。浅草・国際劇場のビューティ・ペアショーは、3日間6公演のチケットが即日、完売。首都圏のオープンと称される野外興行は、空き地や駐車場でやっていたから2000~3000人の集客は日常的だった。野外で700万~800万円の売り上げはざらだった。(つづく)
▲入社後でも、サングラスを外さなかった。隣はビューティー・ファンクラブの女性。
▲左から若き日の阿部四郎、ナンシー久美、ルーシー加山、佐藤ちの。
▲弱冠20歳でまるでベテラン・マネジャーのような貫禄?