ロッシー小川ブログ  MY FAVORITE LIFE

女子プロレス、ルチャ・リブレ、レトロなどなど、プロレス人生を謳歌するロッシー小川の仕事や趣味について大公開!!

女子ガイコク人列伝(第22話)レジー・ベネット

2008年12月20日 15時22分40秒 | 女子ガイコク人列伝
1961年1月24日生まれ、米国・カルフォルニア州サンディエゴ出身。172㎝、100㎏ (得意技)グローバル・ボム、レジー・ラック
 「ダッダ~ン!ボヨヨン、ボヨヨン!」というフレーズは、かれこれ15年以上経った今でも、強烈な印象を残している、いわばレジーの代名詞みたいなもの。これは日本のピップエレキバンという特効薬のコマーシャルの名セリフだ。
 レジーは4人兄弟と5人姉妹の4番目に生まれ、ルイジアナの高校を卒業後、様々な職種を経験。ボディビルやパワーリフティングを習い、いろいろなコンテストで優勝し、映画「グラント」に出演したことがきっかけでプロレスラーのマンド・ゲレロと出会いプロレス入り。87年にハワイの大会でデビューの後、LPWAのTVテーピングに参加。ビッグ・モーと名乗り、リトル・モー(シェリル・ルーサー)との“ロコ・モーション”を結成した。この凸凹コンビは人気を呼び、90年代初頭には前出のCMで、日本でも注目されるようになった。アマゾネスばりに水面から突然、出てきて叫ぶアクションはそれだけで十分なインパクトだった。これにはFMWが最初に目に付けたが、レジーはGパンにヘルメットの土木作業員スタイルで登場。日本でも存在感を現していった。
 ある時に松永会長が「あのボヨヨン呼べないか?」と急に言い出した。そこで来日中のレジーとコンタクトを取り、六本木で会ったのだが…レジーは条件のいいジャパン女子に転出してしまったのだ。ジャパン女子は当時、ジミー鈴木をブッカーにしており、飛行機はビジネスクラス、ギャランティーも破格な条件を提示。レジーは文字通りジャパン・マネーに釣られたのだ。しかし、たった1度の来日でジャパン女子は団体が崩壊。日本の仕事場を失い、その後はカジノで用心棒を務めながら、ブレッド・レイガンスの道場でウエート・トレーニングのコーチに抜擢された。そこで今度は、こちらから松永会長を口説き、レジーを招聘することになったのだ。事務所に隣接するマンションに住みながら、レジーはプロレスのみに専念した。私は後楽園ホールで試合があると、終わってから必ず「トニーローマ」に誘い、気の許せる仲間たちと遅い昼食を取ったものだ。
 レジーは格闘技戦にもチャレンジした。ところが、全女が給料遅配となった時、真っ先に斬られたのは外国人のレジーだった。これは苦渋の選択だった。だから私がアルシオンを設立した時、すぐ思い浮かんだのはレジーのことで、吉田万里子と共にロスへ飛び参戦の話をまとめたのだ。レジーはアルシオンで肉体改善の減量に成功したが、ちょっとした意見の対立で団体を去ることになった。その後は全女やJWPに出場していたが、私と和解したのはそれから3~4年経ってからだった。
 日本で引退後、03年2月のアルシオン5周年大会には来場してくれた。レジーは日本人の男性と結婚したが、やがては離婚。数年前に本国に帰国し、地元のルイジアナで引越し屋をやっているという話を耳にした。力持ちのレジー姉さんのことだから、きっと元気いっぱいで頑張っていることだろう。また会いたいものだ。


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