「かけめぐる青春」で歌手デビューしたビューティ・ペアだが、最初は鳴かず飛ばずだった。しかし昭和51年6月にマキ上田はジャンボ宮本を破り、デビュー1年3ヶ月で早々にWWWA世界王者になった。ジャッキー佐藤もキャリア1年5ヶ月で同年10月、第2回ワールド・リーグ戦」で優勝。今では信じられないハイ・スピードでトップの座に駆け上がっていった。世界のベルト、ワールド・リーグ戦という響きはプロレス・ファンの私には、たまらないフレーズだったが…“驚異の新人”のレベルではない。全体的にプロレスの技術が高度ではないものの、その時代では立派なチャンピオンなのだ。
前年から、フジテレビが月イチの日曜日に放送をしていたが、マッハが抜けてスター不在。全女としては、絶対にビューティ・ペアを売らなければならない。プロレスでは実績を積むジャッキーとマキに欠けているのは、知名度だった。プロではないが、プロのような振る舞いをしていた私を、おそらく選手たちは“仕事でいつも来ているカメラマン”と思っていたに違いない。バックステージには自由に出入りしていたし、主要会場には必ず現れた。
52年になると、全女一行は元日から沖縄サーキット。首都圏に帰って来るまで1ヶ月半以上は要した。2月に私は千葉公園体育館に行った。2ヶ月以上も会場から離れていたから、久しぶりで期待して会場に入ると、女学生の大群が押し寄せ超満員札止め…歌のコーナーでは、無数の紙テープが飛び乱れた。アイドル・タレント顔負けの、異常人気。数日後に横浜文化体育館に行くと、サイン会のため長蛇の列。地方を回って帰ってきただけで、全く状況が一変してしまったのだった。リングサイドはカメラマンが大挙して、争うように撮影する。女子プロレス人気を望んでいたが、プロレス人気ではなく、あくまでもアイドル人気。これには戸惑うしかなかった。松永社長に、「凄い人気になりましたね…」と言うと、「俺は、芸能は嫌いだ…」とポツリとこぼした。興行は、どこに行っても満員。男性ファンはちょっと、居づらい雰囲気となった。
私は一時、会場から離れた。人気も爆発し、マスコミの取り上げ方も凄まじい…9月のある日、会場に行くと松永社長から声が掛かった。「カメラマンとしてやってみないか?良かったら大阪と和歌山の旅があるので、写真を撮りに行ってくれ…」。天からの声のように聞こえた。まず、和歌山に行くのだが、行き方が解らない。「とりあえず、飛行機に乗って行けばいい…」位の感覚で羽田空港から旅立ったのだ。和歌山県立体育館に着き、まずブラック軍団の集合写真を撮ることから始まった。池下ユミに、凶器としてスパナを持たせ撮った。ポジフィルムを初めて使用するだけに、失敗したら…なんて不安もあった。今はデジカメだし、その場で撮影具合が判るから失敗は未然に防げる。
選手たちは、みんな協力的でやり易かった。その年に初の新人オーディションを行い10名近い新人が加入。その選手たちとは面識がなかったが、すぐに慣れていった。後年、ジャガー横田、トミー青山、ルーシー加山として活躍した選手たちは業界では、先輩にあたるのだ。旅での私の面倒は、ダフ屋のクロが見てくれた。全女専属のダフ屋で、顔が真っ黒なため、クロと呼ばれていたのだ。実際は、肝硬変のためだった…新人カメラマンを専属とはいえ、ダフ屋に預けるなんて全女らしい話だ。(つづく)
▲まだ爆発的な人気が出る以前のビューティ・ペア。
▲歌手としても売れっ子になったビューティ・ペアを新宿音楽祭で撮影した。
前年から、フジテレビが月イチの日曜日に放送をしていたが、マッハが抜けてスター不在。全女としては、絶対にビューティ・ペアを売らなければならない。プロレスでは実績を積むジャッキーとマキに欠けているのは、知名度だった。プロではないが、プロのような振る舞いをしていた私を、おそらく選手たちは“仕事でいつも来ているカメラマン”と思っていたに違いない。バックステージには自由に出入りしていたし、主要会場には必ず現れた。
52年になると、全女一行は元日から沖縄サーキット。首都圏に帰って来るまで1ヶ月半以上は要した。2月に私は千葉公園体育館に行った。2ヶ月以上も会場から離れていたから、久しぶりで期待して会場に入ると、女学生の大群が押し寄せ超満員札止め…歌のコーナーでは、無数の紙テープが飛び乱れた。アイドル・タレント顔負けの、異常人気。数日後に横浜文化体育館に行くと、サイン会のため長蛇の列。地方を回って帰ってきただけで、全く状況が一変してしまったのだった。リングサイドはカメラマンが大挙して、争うように撮影する。女子プロレス人気を望んでいたが、プロレス人気ではなく、あくまでもアイドル人気。これには戸惑うしかなかった。松永社長に、「凄い人気になりましたね…」と言うと、「俺は、芸能は嫌いだ…」とポツリとこぼした。興行は、どこに行っても満員。男性ファンはちょっと、居づらい雰囲気となった。
私は一時、会場から離れた。人気も爆発し、マスコミの取り上げ方も凄まじい…9月のある日、会場に行くと松永社長から声が掛かった。「カメラマンとしてやってみないか?良かったら大阪と和歌山の旅があるので、写真を撮りに行ってくれ…」。天からの声のように聞こえた。まず、和歌山に行くのだが、行き方が解らない。「とりあえず、飛行機に乗って行けばいい…」位の感覚で羽田空港から旅立ったのだ。和歌山県立体育館に着き、まずブラック軍団の集合写真を撮ることから始まった。池下ユミに、凶器としてスパナを持たせ撮った。ポジフィルムを初めて使用するだけに、失敗したら…なんて不安もあった。今はデジカメだし、その場で撮影具合が判るから失敗は未然に防げる。
選手たちは、みんな協力的でやり易かった。その年に初の新人オーディションを行い10名近い新人が加入。その選手たちとは面識がなかったが、すぐに慣れていった。後年、ジャガー横田、トミー青山、ルーシー加山として活躍した選手たちは業界では、先輩にあたるのだ。旅での私の面倒は、ダフ屋のクロが見てくれた。全女専属のダフ屋で、顔が真っ黒なため、クロと呼ばれていたのだ。実際は、肝硬変のためだった…新人カメラマンを専属とはいえ、ダフ屋に預けるなんて全女らしい話だ。(つづく)
▲まだ爆発的な人気が出る以前のビューティ・ペア。
▲歌手としても売れっ子になったビューティ・ペアを新宿音楽祭で撮影した。