日本では中堅レスラーのイメージが強いが、アメリカではトップ中のトップに君臨した。レイ・スチーブンスとのタッグではサンフランシスコ地区の王座を長期間保持し、その活躍が通じて1968年には日本プロレスの「第10回ワールド・リーグ戦」に初来日。確か4勝4敗の星を残したと記憶するが、この頃からダークホース的な存在だった。その後は新日本プロレスに参戦し、ジョニー・パワーズとの北米タッグ王者として勇姿を見せた。猪木のNWFに挑戦したこともあるが、技巧派ヒールとしてもの凄いインパクトは残せなかった。
だがWWFでは初代インターコンチネンタル王者として、歴史に名を連ねる実力者。引退後はフロント入りし、ロード・エージェントのトップとして重要なポストに付いていた。オカマ説があったが、真実は謎だが…。
だがWWFでは初代インターコンチネンタル王者として、歴史に名を連ねる実力者。引退後はフロント入りし、ロード・エージェントのトップとして重要なポストに付いていた。オカマ説があったが、真実は謎だが…。