ロッシー小川ブログ  MY FAVORITE LIFE

女子プロレス、ルチャ・リブレ、レトロなどなど、プロレス人生を謳歌するロッシー小川の仕事や趣味について大公開!!

13 新時代はマスクウーマン!?

2009年04月20日 09時22分58秒 | ROSSY's HISTORY
  ジャッキー佐藤の引退により、全女はWWWA世界王者のジャガー横田を中心にヒールながら実力派のデビル雅美、人気者のミミ萩原と3本柱によるトロイカ体制で再スタートを切った。プロレス的にはビューティ・ペア時代より技術的進化はあったものの、観客動員は伸び悩んだ。ジャガーはもっぱら外国人選手を相手に防衛戦を重ねていったが、日本人選手のライバルとして存在したのがデビルだった。デビルはデビュー当時から、池下ユミのブラック軍団に属していたが、池下、マミ熊野が相次いで引退していく中、トコロテン式でトップ・ヒールの立場に踊り出した。名称もブラック軍団から、デビル軍団と変えワイルド香月と改名した伊藤浩江をパートナーに、木刀というニュー・ギミックで大暴れ。 
  当時のタッグ戦線は、WWWA王者がミミと大森ゆかりのチーム。大森は、デビュー1年強でタッグのトップに君臨していた。S55年組の一番出世でもあった。女子野球のニュー・ヤンキースの練習生出身という触れ込みで入門した北村智子は、ライオネス飛鳥と改名したが、全日本ジュニアを奪取後、全日本王座で足踏みした。このニュー・ヤンキースというのは、ビューティ・ペアを仕掛けたフジテレビの吉田斉プロヂューサーが、二匹目のどじょうを狙い、TVのために結成された野球チーム。だから女子プロレス中継のゲストとか、ニュー・ヤンキースの番組には選手が借り出されたりもした。だが、ニュー・ヤンキースは短命で飛鳥が入門したあたりから、フェードアウトしていった。
  55年組は新たに、ワイルド香月がタランチェラ、本庄ゆかりがマスクド・ユウとそれぞれマスク・ウーマンに変身。全女で本格的なマスク・ウーマンは、シルバー・サタン以来…マスクをどこに発注していいか…この頃、初代タイガーマスクが「OJISAN企画」というマスク・メーカーに依頼していると聞き、五反田にある工房まで出かけていったものだ。豊島さんという名のマスク職人は、昔かたぎの人。タイガーマスクのマスク作りには情熱を燃やしており、いつも熱く語ってくれた。タランチェラもマスクド・ユウも豊島さんの作品だった。その当時、六本木の「PIPS」というココナッツ・パブで定期的にアマチュア・プロレスの大会が開かれており、豊島さんがマスクやコスチュームを作ってあげていた関係で何度か、覗いたことがあった。そこには、デビュー前のモンキー・マジック・ワキタ(スペル・デルフィン)や、後に全女のリングアナになった今井さんがタイガー今井のリングネームで闘っていたりもした。ここには、本物のタイガーマスクこと佐山サトルも姿を見せたことがあった。
  私はこの頃から、マスクに興味を持っており、来日するラ・ギャラクチィカ(パンテラ・スレーニャ)に頼み、ルチャドールの試合用マスクを入手したりもした。スペイン語など判らないから、画用紙にマスクの絵を描き説明したこともあった。でも、メキシコの選手に触れるたびに、本場のルチャリブレに接したいと強く思うのだった。私が初めてメキシコの地を訪れたのは、1990年12月、33歳の時だから、憧れを抱いてから10年以上の月日が経っていたのである。話はずれたが、マスク・ウーマンとなったタランチェラは、デビルのパートナーに抜てきされ、WWWA世界タッグ王座をたった1回の挑戦で奪取してしまったのである。あのバネ仕掛けの人形のような俊敏な動きは今、振り返ってもお見事だった。(つづく)

▲新時代はジャガーとデビルが中心になった。

▲全日本ジュニア王者時代の長与千種と。

▲マスクに魅せられた私は恵比寿のアパートで。さて私は誰でしょう?

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