CSの「ワールドプロレスクラシックス」で、昭和46年に行われたアントニオ猪木vsジャック・ブリスコのUN選手権が放送された。この試合、とにかくブリスコは強く、速く、そして上手いのである。NWA世界王者になってからは守りの闘いが主体だったため、こんなにアグレッシブなブリスコは滅多に見られない。当時の日本プロレスは馬場、猪木とラフファイターの外国人がメインを張っていた。だからテクニシャンのブリスコは、実力者ながら目立たない存在。おそらくvs猪木戦はブリスコの日本におけるベストマッチだっただろう。
派手な大技は全く出ないが、猪木とブリスコはグラウンド・テクニックを見せ付けた。また猪木の体も大きく、年齢的にも最も充実の頃。1-1から決勝の3本目こそ、猪木がラッシュを仕掛けコブラツイストで勝利をものにしたが、昭和44年のドリー・ファンクJrとの試合といい、テクニシャン猪木が存分に見れる試合なのだ。
ブリスコが来日した、このサマー・ビッグシリーズで私は後楽園デビューを果たした。昭和46年7月23日、生まれて初めて後楽園ホールに出向いたのである。中学2年生、14歳の私にとって実家のある千葉市から、水道橋は遠かった。私の所持するノートによると、これがプロレス観戦4度目だったのだ。やっぱりプロレス観戦するには、後楽園は憧れの場所だったからだ。
派手な大技は全く出ないが、猪木とブリスコはグラウンド・テクニックを見せ付けた。また猪木の体も大きく、年齢的にも最も充実の頃。1-1から決勝の3本目こそ、猪木がラッシュを仕掛けコブラツイストで勝利をものにしたが、昭和44年のドリー・ファンクJrとの試合といい、テクニシャン猪木が存分に見れる試合なのだ。
ブリスコが来日した、このサマー・ビッグシリーズで私は後楽園デビューを果たした。昭和46年7月23日、生まれて初めて後楽園ホールに出向いたのである。中学2年生、14歳の私にとって実家のある千葉市から、水道橋は遠かった。私の所持するノートによると、これがプロレス観戦4度目だったのだ。やっぱりプロレス観戦するには、後楽園は憧れの場所だったからだ。