ロッシー小川ブログ  MY FAVORITE LIFE

女子プロレス、ルチャ・リブレ、レトロなどなど、プロレス人生を謳歌するロッシー小川の仕事や趣味について大公開!!

17 クラッシュ・ギャルズ誕生

2009年05月14日 14時16分27秒 | ROSSY's HISTORY
  クラッシュの専属コーチとなった山崎照朝さんは、ショッパーという東京新聞の購読者に無料配布するショッピング情報紙を埼玉県大宮市(現さいたま市)で、編集・発行していた会社の取締役だった。自身の格闘技経験を活かして、デイリースポーツや後に東京中日スポーツの格闘面に寄稿していたこともあり、クラッシュの記事もデイリーの紙面を飾ったものだ。空手というキーワードを貰ったクラッシュは、とにかく山崎さんをリスペクトした。山崎さんの練習は終盤を迎えると決まって、「あと10回!」と言いながら、必死に終えると、「はい、あともう10回!」と言い、エンドレスになったものだ。山崎さんもクラッシュの二人を可愛がったし、いろいろな空手技を伝授した。
  それ以前、千種は長州力と前田日明に傾倒していたため、意識してサソリ固めやニールキックを使い、前田のニックネームだった“クラッシャー”をもじって、「私はクラッシュ・ガール」と言っていたのを、飛鳥と二人なら、“クラッシュ・ギャルズ”と命名したのが、クラッシュのいわれだった。私は飛鳥に千種と同じようなヘア・スタイルをするように言い、ストレート・パーマにした。タッグチームとしてのクラッシュを強く打ち出したいから、同じヘア・スタイルに同じコスチューム、同じ空手殺法と、揃えたかったのだ。
  当初、この名前が気に入らなかった植田信治コミッショナー(故人)は、クラッシュという名前を意図して無視した。その当時、デイリー・スポーツ事業社を定年退職した植田さんは、全女の事務所に常勤で出社していた。事業社の代表だったから、通称“代表”と呼ばれ、主に巡業のコース(日程)を組んだり、パンフレットやファンクラブの会報の原稿を書いたり、レイアウトまで行っていた。コミッショナーとして、ビッグマッチでは本部席に座り、熱血コミッショナーぶりを発揮する。本当に仕事熱心な人で、好んでいろいろな仕事をこなしていた。パンフレットの原稿も書いていたのだが、書き方が新聞記事的なので、ウエットに富んだ内容ではなく面白みには欠けていた。植田さんが原稿を書くのだから、クラッシュの文字は断じて列記しない。これは、嫌がらせではないかと思うほど、徹底していた。
  それでもクラッシュの人気が上がってくると、自然のうちにクラッシュの名前を書くようになってきたのだ。これは、こっちの勝ちだと密かに思っていた。WWWA世界王者のジャガー横田は不動の王者だったが、ライバルとして浮上したデビル雅美と2度目のタイトルマッチは物議を呼んだ。前回の挑戦で引き分けたデビルは、背水の陣で挑んだが、結果はジャガーの押さえ込みに屈したのであった。カウント・スリーが入り、デビルはそれこそ鬼のような形相で、リングサイドを歩き回り、泣きじゃくりながら「こんな会社、辞めてやる!」と口走ったのである。デビルとしては、自分が押さえ込みの体勢に入った際には、カウントが入らず、逆に押さえられるとカウントが入ったことに疑問を抱いたからだ。控室に入ってからも、レフェリーを務めた松永俊国さんと大立ち周りまでしたのだ。私はこの件で、デビルは辞めると察知したが、留保したのだった。これは事件だったが、プロレス・マスコミも満足に報道していない状況なので、蚊帳の外として闇に葬られた。どんな感情が走ろうと、女子プロレスはまだまだ、プロレス界で認められない存在。それがクラッシュの手で、変革していくのは時間の問題であった。(つづく)

▲この3人で女子プロレス界に旋風を巻き起こしたと自負する。

▲これが物議を呼んだジャガーvsデビル、2度目のWWWA戦。

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