軍艦島の中でもよく知られた場所や有名なエピソードの数々は、
軍艦島関係の老舗サイトさんを初め、私たちオープロジェクトや
端島出身の方のサイトもで、沢山アップされているので、
このブログでは、あまり知られていない所を取り上げていきたいと思います。
かつて明治年間の僅かな期間に炭鉱として栄え、
その後軍艦島の姉妹島的な役割を担ってきた中ノ島の特集。
煉瓦に関する話がもう一つあるので、
前回に引き続きアップします。
※画像はクリックすると拡大します。
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画像は中ノ島の隣の島、高島にある明治時代の竪坑跡<南洋井坑>です。
メインのみちから入った所にひっそりと佇んでいる、
看板がないとそれと解らないくらい地味に残存する遺構です。
かろうじて3面残る煉瓦は、かつて竪坑の内壁を覆っていた煉瓦だと思います。
※画像はクリックすると拡大します。
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南洋井坑の煉瓦面をアップした画像です。
この煉瓦が気になったので、
前回同様ほぼ正面画像で縦横比を計ってみました。
すると
長い側面は20:5.3
短い側面は10:5.3
でした。
中ノ島内に残る厚めの煉瓦よりも更に若干厚いことになります。
南洋井坑は、『高島炭鉱史』によると、
明治4年(1871)~明治25年(1892)の間稼働した竪坑なので、
中ノ島が炭鉱として操業していた
明治17年(1884)~明治26年(1893)の時に、
既に厚みのある煉瓦が長崎で使用されていたことになります。
これからわかることは、
「中ノ島の島内に残る厚みのある煉瓦遺構が、
蒟蒻煉瓦の遺構より早い時期に作られた可能性もあるのではないか」
ということです。
さらに煉瓦といえば、最近気になる所があります。
オープロジェクトのメンバー大西氏が先日ロケハンで行った西表炭鉱の画像をご覧下さい。
画像に写る遺構の煉瓦が<蒟蒻煉瓦>のように見えます。
この記事の前後には、何枚かの画像がアップされていますが、
本人の話だと、薄いのもあれば厚いのもあったと言うことです。
果たして蒟蒻煉瓦は、沖縄そして西表でも使われていたのでしょうか?
因みにこの炭鉱は明治期から大戦前まで稼働していました。
>次の記事 >この特集を最初から読む
■シリーズ:中ノ島■ INDEX
【参考】蒟蒻煉瓦:小菅修船場
元軍艦島の島民の方々のブログ及びサイト
★現役時代の中ノ島:炭鉱操業時と綺麗に整備されている緑地公園
★究極の軍艦島サイト!:軍艦島や中ノ島の事を詳しく知りたい方はまずこちらへ!
通常見られない数々の操業時の写真は圧巻!
この写真を見て、このレンガは何処で生産されて物かと考えました。三菱の前身、長崎鎔鉄所にはレンガが必要だったでしょうし、そこでレンガの生産もしていて、後の三菱などにも供給したのかもと考えたりしています。
レンガ一つで、蜘蛛の網のように世界が広がってくる感じです。
書き込みありがとうございます!
横浜の煉瓦倉庫などは、廃墟の時代から見ていて、
煉瓦は綺麗だな~くらいには思ってましたが、
こうやって時間の紐をほぐし出すと、
いろいろ面白いことが解ってくるものなのですね!
長崎溶鉄所のハルデスさんの話は、
一つ前の記事にもアップしましたが、
記録に残ってる国内最初の煉瓦製造は、
ここから始まったみたいです。
煉瓦の事で、さらに気になることがあります。
南洋井坑や中ノ島の煉瓦は、
全てイギリス・オランダ積みといわれる、
一段長い面をずらっと並べたら、
次の段は短い面をずらっと並べるという積み方ですが、
そろばんドッグとして知られる小菅修船所の積み方は、
一段の中に長い面と短い面を交互に並べていく、
フランス積みという作りになっています。
南洋井坑と小菅修船所。
共にグラバーと三菱に深い関係があるものなのに、
この違いはなにかと思います。
南洋井坑跡が有った附近は、昔の写真を見るとかなり大きな施設だったのがわかります。
薄い煉瓦の構造物は、
やはり明治期の炭鉱施設のいこうでしょうか。
高島にも沢山の遺構が残存していることを知りました。
時間があったら、高島もゆっくり見学したいと思っています。
薄い煉瓦の構造物については、今、情報を持ってないので、機会が有れば報告させて頂きます。
超問さんでしたか!
薄い煉瓦の構造物の情報。お待ちしております!
次回訪崎の際は、是非高島をじっくり見てみたいと、
思っています。