映画「かもめ食堂」「めがね」「マザーウォーター」「トイレット」で、もたいまさこさんは存在感を放っている。
正直「かもめ食堂」や「めがね」では、主演の小林聡美さん目当てで鑑賞したのだが、「めがね」からもたいさんの、美しい「カタチ」に目が行くようになった。
私は「かもめ食堂」が、なぜかものすごく気にいり、同じ監督(荻上 直子氏)作品だから「めがね」もさぞいいだろうと思って借りたのだが、私の中では「かもめ」を凌ぐものではなかった。
「マザーウォーター」では、さらにその美しさが、私の中でクローズアップされ、「トイレット」で、それは確信となった。
ちなみに「マザーウォーター」も、同じ監督かと思っていたが、違った。
役柄か、本来の特質か、あるいは監督指示かはわからないけれど、食事をするカタチ、料理を作るカタチが、なんとも言えず美しい。
その美しさを意識して撮影しているのか、それをクローズアップするように撮影しているのか
ひとつひとつの動きが、とても丁寧でキレイで、おかしな表現の仕方だが、「静寂が聞こえる」ようなのだ。
もたいさんの丁寧なカタチは、日本古来の行儀作法のようなカタチであるような気もする。
カタチも大事だと、もたいさんの動きを見て、つくづく思う。
ちなみに、日々ガサツに動いている私が、たまに丁寧に動くと、ものごとがスムーズに運ぶ。
ガサガサとあれやってこれやってと思いながら動いているはずなのに、冷蔵庫を開けて「あれ?何出すつもりだったんだろう?」とか、電子レンジを開けたつもりが、オーブントースターを開けていたりとか、このところ間違いが多い。
同年代の友人と喋っていても「よくやる」と言っているので「歳のせいってこういうことなんだろうか」とお互いに認めたくないけど、そうなんだろうなというところで話が落ち着く。
でも、一つ一つのことを丁寧にしていくと、こういう間違いは驚くほど減るし、そういう時は、驚くほど心が静かだ。
これは、まだ若かった時に、なんでも手際よくちゃちゃっと出来ていたときには知らなかった静けさだ。
部屋の中を行き来するときも、静かに歩くと、世界も静かになる。
世界が静かになる=私の内が静になる ということなのだ。この静けさはたまらなく魅力的だ。
ずっとこの世界にいたいというほどの、満ち足りた静寂さ。
しかし、すぐにその世界は消える。ガサツな動きに戻ったり、思考が活動を始めるから。
丁寧に動くということは、丁寧に身体を動かすということに繋がる。
そうすると、心が静寂に満たされ、幸せなカタチがまたひとつ増える。
静かに動くのは、気持ちいい。
こう書いていても、先に書いたように、私の日常はガサツに溢れ、常に焦っている。あれして、これして、、、。
思考が止まらず、焦るがゆえに、不手際も多く^^;
だから、時たま「えっ 今、ものすごく心が静かやったけど、なんで?」と感覚の再現を目指すが、それを求めると消える。
でも、何度か体験するうちに、静寂を得る方法はわかった。
身体感覚を感じながら、静かに、丁寧に動くという方法。
身体感覚を感じている時は思考もとまっている。
そうすると静寂、心の平穏という幸せのカタチがやってくる。
私なりの方法はわかったが、常に静かな世界に遭遇できるとは限らない。
望みすぎると、欲望という思考に支配されてかなわない。
でも、たまに内なる静寂を味わうのはとても素敵なのだ。
鍵は、思考を止めて、身体感覚を味わうところにあるような気がする。
あなたは、内なる静寂に出会ったことはありますか?