こんばんはーまごーんや。
とうとう、先祖の城館が完成しました。
それがこちら!
配置はもちろんイメージ。史料が存在しやんからね。
あくまでこんな感じということ。
南北150m、東西85mの規模を有した小宮山氏の城館。西に矢出沢川の崖を利用し、さらにその西には上州道、城館の東には松代道の街道がある交通の要所です。
次に同時進行していた小宮山氏の居城である小宮山城(いまの米山城)。
上からの写真。
↑三ノ郭から一ノ郭を見る。
いまは城跡はなにもないけど、この様にジオラマにすると雰囲気が感じやすいですね。
小宮山氏の領地はいまの上田市の中心街で、坂城の村上義清と領地を接していました。曰く、小宮山氏は海野家臣団の中ではかなり重要な地位にいたことが想像できます。実際に小宮山氏は海野家と同じ滋野姓を許され。海野家の通字である”幸”の一字を名前に入れています。(御符礼ノ古書より)
小宮山氏の北には横尾氏という村上配下の武将(長享日記より)がおり、まさに北と西を睨んでおりました。
村上義清は塩田平合戦で勝利し塩田平を取るまでは此方(上田方面)をかなり重要な武将を配置していたと考えますわ。
とうとう、先祖の城館が完成しました。
それがこちら!
配置はもちろんイメージ。史料が存在しやんからね。
あくまでこんな感じということ。
南北150m、東西85mの規模を有した小宮山氏の城館。西に矢出沢川の崖を利用し、さらにその西には上州道、城館の東には松代道の街道がある交通の要所です。
次に同時進行していた小宮山氏の居城である小宮山城(いまの米山城)。
上からの写真。
↑三ノ郭から一ノ郭を見る。
いまは城跡はなにもないけど、この様にジオラマにすると雰囲気が感じやすいですね。
小宮山氏の領地はいまの上田市の中心街で、坂城の村上義清と領地を接していました。曰く、小宮山氏は海野家臣団の中ではかなり重要な地位にいたことが想像できます。実際に小宮山氏は海野家と同じ滋野姓を許され。海野家の通字である”幸”の一字を名前に入れています。(御符礼ノ古書より)
小宮山氏の北には横尾氏という村上配下の武将(長享日記より)がおり、まさに北と西を睨んでおりました。
村上義清は塩田平合戦で勝利し塩田平を取るまでは此方(上田方面)をかなり重要な武将を配置していたと考えますわ。