今日はこちらの、旧制郡山中学校の寄宿舎を写した絵葉書についてです。
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旧制郡山中学校(のち郡山高等学校。以下、郡中)は、奈良にある大和郡山藩邸を利用し1876(明治9)年に開校しました。
1893(明治26)年 郡山尋常中学校と吉野尋常中学校が合併して奈良県尋常中学校を新設し、その後幾度の分校、改称を経て、1901(明治34)年に奈良県立郡山中学校と改称しました。
郡中に、いつ寄宿舎ができたかは判然としておりませんが、大正時代にはすでに存在していました。
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大正12年頃の寄宿舎(『奈良県立郡山高等学校百年史<写真編>』27頁)
昭和2年4月12日になると、奈良県知事の認可のもと、郡中の寄宿舎が正強中の本校舎として払下げられることになりました(奈良県正強学園『創立40周年記念誌』)。
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払い下げ直後の寄宿舎(『奈良大学附属高等学校創立七十周年記念誌』〔以下、『記念誌』〕29頁)
なぜ、郡中の寄宿舎が払い下げられたのでしょうか。それは正強中の設立者である藪内敬治郎が郡中の明治37年卒業生であったことや、当時の郡中の校長増戸鶴吉が教職員を手伝いへ行かせたりと(『40周年誌』)、正強中にはかなりの郡中関係者が協力していたことが大きいと思われます。協力者のなかには池田與一(郡中野球部部長、のち郡山高校校長)も含まれていまし)。
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正強中学へ助力した増戸鶴吉校長(『百年史』3頁)。
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増築された玄関(『70周年誌』114頁)
移築され、正強中学本校舎として使用された寄宿舎は、戦後も残っていましたが、1974年6月に火災により焼失しました。
郡中は大正13年に、校舎の大部分が焼失しており(『100年史』)、旧寄宿舎は大正時代の郡中の雰囲気を伝える数少ない建物でした。
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(『記念誌』68頁)
以上が、旧郡山中学校の寄宿舎のあらましです。
西大寺にあった正強中学(のちに高等学校)も、秋篠町の現在地へ移転となり、西大寺校舎は解体、宅地と公園となりました。ですので、南都正強中学の草創を偲ぶ建物は、現在も薬師寺にある、初代校舎と職員室兼校長室の2棟だけになってしまったのです。
参考文献
奈良県立郡山高等学校編『奈良県立郡山高等学校百年史<写真編>』奈良県立郡山高等学校、1994年。
七十周年記念誌編纂委員会編『奈良大学附属高等学校創立七十周年記念誌』学校法人正強学園奈良大学附属高等学校、1996年。