今日、8月30日は1939年に阿部信行内閣が発足した日です。なので阿部関連の史料を出します。
内閣総理大臣になった阿部信行(NDLの「近代日本人の肖像」より)
内閣総理大臣になった阿部信行(NDLの「近代日本人の肖像」より)
阿部は1875(明治8)年に石川県金沢で生まれ、第四高等学校から陸軍士官学校に編入しました。同じ道に林銑十郎(陸軍大将・首相)がいます。
陸軍の中央街道を歩き、陸軍大将となったあと、1936(昭和11)年の二・二六事件で引退し、1939年8月から1940年1月まで総理大臣を務めました。その後も翼賛政治総裁、駐華大使、朝鮮総督などを務めました(大久保瑞彦「阿部信行と昭和戦時期の日本政治」)。
阿部内閣自体は、戦前唯一昭和天皇が閣僚を注文する、阿部が大命降下の瞬間を報道陣に公開するなど異例づくめでしたが、貿易省設置問題や、日米交渉などで失敗した為、わずか4ヶ月しか続きませんでした(この辺は、米山忠寛「阿部信行」御厨貴編『宰相たちのデッサン』が入口に良いです。より詳しくは佐道明広「欧州大戦勃発直後における対外政策の模索--阿部内閣期の外交政策立案過程を中心に」があります)。
(私が所蔵してる『阿部内閣写真銘鑑』。国会図書館にもなかった気がする)
さてその彼が最後に就任した官職が朝鮮総督で、標題通り、阿部信行朝鮮総督名で出された通知書が今回の紹介品です。
薄い紙に鉱乙第13の3211という数字とともに以下のように書かれてます(1番読みやすいように適宜新字体、および印をつけた)。
和田寿夫
昭和十三年四月五日忠清北道永同・沃川郡
陽山・伊院面蛍石鉱業出願ノ許可ハ指定
ノ期限迄ニ登録ノ申請ヲ為サザルニ付朝鮮
鉱業令施行規則第二十条第二項ノ規定ニ依
リ許可ノ効力ヲ失シタルニ付此ノ旨通知
ス
昭和十九年九月二十二日 朝鮮総督 阿部
信行
見ての通りですが、和田寿夫という人物が1938(昭和13)年四月に忠清北道(現在の大韓民国)の永同郡陽山面と沃川郡伊院面に蛍石(顕微鏡のレンズに使われたりする鉱石)鉱業の出願を出していたけど申請が無いので効力無効というものです。
和田寿夫という人物は残念ながら不明でした。
朝鮮総督としての阿部は、その任期が1944年7月から1945年9月というアジア・太平洋戦争末期の短い期間でした。それもあって研究者や、当時の人達の回想でも、取り上げられることはほぼありません(加藤聖文『「大日本帝国」崩壊』、木村光彦『日本統治下の朝鮮』、宮田節子編『東洋文化研究』)。
ですが、昭和史の重要な場面で要職についてる阿部です。なにぶん史料が少ないものの、今後の研究が待たれます。
平沼騏一郎(本日同内閣最後の日)が中公新書(萩原淳『平沼騏一郎』)から出る世ですから、阿部信行もそのうち出るでしょう。楽しみにしておきます。
本日はこの辺で。
参考文献
大久保瑞彦「阿部信行と昭和戦時期の日本政治」『信濃』71-3、2019年3月。
加藤聖文『「大日本帝国」崩壊』中公新書、2009年。
木村光彦『日本統治下の朝鮮』中公新書、2018年。
佐道明広「欧州大戦勃発直後における対外政策の模索--阿部内閣期の外交政策立案過程を中心に」『東京都立大学法学会雑誌』29-1、1988年7月。
宮田節子編「未公開資料 朝鮮総督府関係者 録音記録(1)」『東洋文化研究』2号、2000年3月。
米山忠寛「阿部信行」御厨貴編『宰相たちのデッサン』ゆまに書房、2007年。
なお韓国の地名や蛍石の用途はwikiの各項目を使いました。
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