皆さん、片倉衷という人物を知っていますでしょうか?
片倉衷は陸軍少将。仙台出身で父は陸軍大佐。先祖は伊達家重臣片倉氏だといわれてる。
彼は永田事件、二二六事件など歴史的場面に遭遇しており、板垣征四郎、石原莞爾とともに三羽烏の一角を担う人物であった。
今回は片倉の緬甸時代に絡んで話します。が、起承転結はなってない。
緬甸、それは牟田口、花谷、辻、さらには大村純之など豪華メンバーがいた。
緬甸方面軍高級参謀時代の片倉衷(中央)
さて、片倉は第15軍参謀に補され、九七式重爆に乗ってラングーン北のミンガラドン飛行場に降り立った。
それを見た記者は「けいけいとした眼光、鉢の大きく開いた巾着頭、はちきれるばかりがっしりした体躯、参謀飾緒を波打たせながら両肩を左右に大きくゆする精悍な一人の大佐」とし「剛毅と果断実行、俊敏な頭脳」と感想を述べている。
ちなみにこの時の部下は竹下正彦中佐。
さて、彼はなんと上官に着任報告をせず、そのまま作戦室へ入り、これには幕僚たちは大慌てだったようです。
暫くして、片倉は方面軍高級参謀となり、少将へ昇進してます。
緬甸には桜井徳太郎が赴任していました。片倉は桜井のことを「トクタ」といい、仲が良かったようです。
桜井徳太郎が方面軍へ「出た出た」「行く行く」の作戦成功の電報を送り、もらった片倉は「うーん、これはトクタだよ。トクタのやりそうなことだよ」と機嫌が良かったとのこと。
片倉は「軍司令官に対し作戦の責めに任ずるのは俺だ」の口癖のもと、どんな真夜中にも作戦上重要な電報には目を通し、直ちに必要な処置をした。もちろん、気に入らないとビリビリ破り、バカヤローとな、トンマメと参謀を叱ってたりした。
そんな方面軍参謀部内で権力を誇ってた片倉でもかなわない人物がいた。
牟田口閣下は強かった…!
牟田口は「幕僚のくせに」と怒鳴りちらして、着任したばかりの河辺正三と密談したい旨を断った片倉を無視して会談をはじめた。
「牟田口はビルマの古ダヌキだ。」
と言ったわけだが、河辺が心配である。
片倉が言ったのかわからないが、「おそらく印度進行作戦に関する話しが出るでしょうが、そのことでしたら直ちに片倉を、および下さい」と耳打ちし、河辺は片倉を呼んだ。良かったね片倉。
片倉は宣伝に対しても熱心であった。
「高級参謀殿は武田信玄の肖像みたいだね」とは電報班の木下光直陸軍少尉の話である。
木下少尉は「馬鹿者めっ。貴様はそれでも陸大を出たのか。そんな奴は参謀の資格がない。縄をはずせ」と片倉にやられる参謀たちをみて片倉が英雄に見えたという。
岡田中尉(東大)は「参謀は頼りにならんと思っていたら高級参謀は異常に宣伝に熱心だ。作戦も軍政宣伝もあそこで一手に調合されるとあらば、筋が通るが、前のように参謀部へ行けば、皮肉や嫌味ばかり並べる参謀じゃどうもならんからねぇ」という宣伝班の噂から片倉に興味を持った。
これで最後にするが、岡田中尉はその後、片倉に招待され、酒の席で一緒になった。
お酒大好きな中尉は、酔いがまわると
「いいオヤジだ。これならやれるぞ」
と言い、片倉の胡座の上へ前からまたがり、首に左手をまきつかせて、右の掌で大きく開いた毛のうすい頭を、ピシャリピシャリと叩き撫でまくった。
この件のその後はわからないが岡田中尉はその後も片倉とともに緬甸で任についてるので不問になったのであろう。
4期離れた先輩にも御構い無しに癇癪垂れる豪放磊落な片倉にこの様なことをしたのは岡田中尉だけであろう。
さて、何が何だか、駄文になった。
これで終わり。
参考・引用文献
田村吉雄編『秘録 大東亜戦史 ビルマ篇』富士書苑、1953年より
片倉衷は陸軍少将。仙台出身で父は陸軍大佐。先祖は伊達家重臣片倉氏だといわれてる。
彼は永田事件、二二六事件など歴史的場面に遭遇しており、板垣征四郎、石原莞爾とともに三羽烏の一角を担う人物であった。
今回は片倉の緬甸時代に絡んで話します。が、起承転結はなってない。
緬甸、それは牟田口、花谷、辻、さらには大村純之など豪華メンバーがいた。
緬甸方面軍高級参謀時代の片倉衷(中央)
さて、片倉は第15軍参謀に補され、九七式重爆に乗ってラングーン北のミンガラドン飛行場に降り立った。
それを見た記者は「けいけいとした眼光、鉢の大きく開いた巾着頭、はちきれるばかりがっしりした体躯、参謀飾緒を波打たせながら両肩を左右に大きくゆする精悍な一人の大佐」とし「剛毅と果断実行、俊敏な頭脳」と感想を述べている。
ちなみにこの時の部下は竹下正彦中佐。
さて、彼はなんと上官に着任報告をせず、そのまま作戦室へ入り、これには幕僚たちは大慌てだったようです。
暫くして、片倉は方面軍高級参謀となり、少将へ昇進してます。
緬甸には桜井徳太郎が赴任していました。片倉は桜井のことを「トクタ」といい、仲が良かったようです。
桜井徳太郎が方面軍へ「出た出た」「行く行く」の作戦成功の電報を送り、もらった片倉は「うーん、これはトクタだよ。トクタのやりそうなことだよ」と機嫌が良かったとのこと。
片倉は「軍司令官に対し作戦の責めに任ずるのは俺だ」の口癖のもと、どんな真夜中にも作戦上重要な電報には目を通し、直ちに必要な処置をした。もちろん、気に入らないとビリビリ破り、バカヤローとな、トンマメと参謀を叱ってたりした。
そんな方面軍参謀部内で権力を誇ってた片倉でもかなわない人物がいた。
牟田口閣下は強かった…!
牟田口は「幕僚のくせに」と怒鳴りちらして、着任したばかりの河辺正三と密談したい旨を断った片倉を無視して会談をはじめた。
「牟田口はビルマの古ダヌキだ。」
と言ったわけだが、河辺が心配である。
片倉が言ったのかわからないが、「おそらく印度進行作戦に関する話しが出るでしょうが、そのことでしたら直ちに片倉を、および下さい」と耳打ちし、河辺は片倉を呼んだ。良かったね片倉。
片倉は宣伝に対しても熱心であった。
「高級参謀殿は武田信玄の肖像みたいだね」とは電報班の木下光直陸軍少尉の話である。
木下少尉は「馬鹿者めっ。貴様はそれでも陸大を出たのか。そんな奴は参謀の資格がない。縄をはずせ」と片倉にやられる参謀たちをみて片倉が英雄に見えたという。
岡田中尉(東大)は「参謀は頼りにならんと思っていたら高級参謀は異常に宣伝に熱心だ。作戦も軍政宣伝もあそこで一手に調合されるとあらば、筋が通るが、前のように参謀部へ行けば、皮肉や嫌味ばかり並べる参謀じゃどうもならんからねぇ」という宣伝班の噂から片倉に興味を持った。
これで最後にするが、岡田中尉はその後、片倉に招待され、酒の席で一緒になった。
お酒大好きな中尉は、酔いがまわると
「いいオヤジだ。これならやれるぞ」
と言い、片倉の胡座の上へ前からまたがり、首に左手をまきつかせて、右の掌で大きく開いた毛のうすい頭を、ピシャリピシャリと叩き撫でまくった。
この件のその後はわからないが岡田中尉はその後も片倉とともに緬甸で任についてるので不問になったのであろう。
4期離れた先輩にも御構い無しに癇癪垂れる豪放磊落な片倉にこの様なことをしたのは岡田中尉だけであろう。
さて、何が何だか、駄文になった。
これで終わり。
参考・引用文献
田村吉雄編『秘録 大東亜戦史 ビルマ篇』富士書苑、1953年より
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