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第601回 沢村栄治と日米野球の秘話

2024-11-08 | エッセイ
 大谷翔平、山本由伸両選手の活躍もあり、ロサンゼルス・ドジャースが見事ワールド・シリーズのチャンピオンに輝きました。シーズン中から両選手とチームに声援を送ってきただけに、嬉しさひとしおです。そんな中、沢村栄治やベーブ・ルーズといった伝説の野球人が登場した日米野球に想いが及びました。のち程ご紹介する本に、興味深いエピソードが溢れていたのを思い出しましたので、お伝えすることにします。どうぞ、最後までお付き合いください。

 野球にあまり関心がなくとも、伝説の大投手・沢村栄治の名前はご存知の方が多いでしょう。そして、日米野球で、かのベーブ・ルースから三振を奪ったことも。
 「その時歴史が動いた」(NHK取材班・編 KTC中央出版 全8巻)は、かつてNHKが放映していた同名の番組を書籍化したものです。第1巻でこの話題が取り上げられています。沢村が力投した第10戦がハイライトになりますが、大会実現までのいきさつ、試合を戦う中での日米野球の交流、そして、伝説の試合の微妙な勝負のアヤ・・・など興味が尽きません。さっそくご紹介します。

 昭和の初め頃は、満州事変、我が国の国際連盟脱退などで、日米の緊張が高まっていました。それに対して、日米親善野球で融和を図ろうとした中心人物が、読売新聞社社主の正力松太郎です。その意向を受けて、外務大臣の幣原喜重郎がニューヨーク総領事を通じて働きかけをしました。
 大リーグは、選抜チームを、昭和9(1934)年のシーズン終了後に日本に派遣することを決定しました。選ばれたのは、ベーブ・ルースを含めたトップクラスの選手たちです。ただし、ルースの参加はすんなりとは決まりませんでした。力の衰えを感じて引退の意思を固めていたのです。球団からマイナーチームの監督を打診されたことへの不満もあり、日米野球どころではありませんでした。そこへ、正力の意を受けて説得に乗り出したのが、鈴木惣太郎(のちのセ・リーグ顧問)です。「日本へは行かない」の1点張りのルースに鈴木が見せたのが、真ん中にルースの似顔絵が大きく描かれたこの大会ポスターです。「ポスターを見たルースは、突然笑い出し、こう答えました。「OK! 日本に行こう」」(同書から)

 さて、迎え撃つ(と言うにはいささか力の差がありますが)日本側の体制です。当時、野球といえば、中等学校野球(現在の高校野球)と、早慶戦に代表される大学野球でした。全国から優秀な選手を集める中で、ひときわ目立ったのが、京都商業5年生(最終学年)の沢村栄治です。

 球種は、伸びのある快速球と縦に割れるカーブ(当時はドロップとも)の2つだけです。地区予選のある試合では、16回を投げ抜き、36奪三振というとんでもない記録を残しています。番組ゲストの池井優氏の言葉です。「これ(2種の球種)で抑えきったということは、よほどのスピードがあったということです。「手元へ二段に伸びる気がした」と当時のバッターは言っていますけれどね」
 実は、沢村は、大学野球に憧れ、慶應大学への進学を希望していました。プロと戦う全日本に入ることは、健全なスポーツを見世物にする、という偏見もある中、7人の家族を抱える家の経済事情を考え、苦渋の決断でした。

 昭和9(1934)年11月2日、ついに全米選抜チームが来日し、親善試合が始まったものの、とても歯が立ちません。迎えた第5戦の先発は、期待を一身に背負った沢村です。しかし、沢村は打たれました。12安打、3本塁打を浴び、10対0の完敗です。
 試合の後、沢村は大リーグの選手からこんなアドバイスそ受けました。「投手は肩を休めることも必要で、絶対に無駄な球を投げてはいけない」(同前)というもの。なにしろ、試合の直前でも300球近くを投げ込む激しい練習を課していましたから。半信半疑ながら、次の試合まで肩を休ませ、チーム9連敗の後、運命の第10戦(草薙球場(静岡))に、沢村は満を持して登板しました。それまでに10本の本塁打を打ったルースが3番、このシーズン三冠王のゲーリッグが4番に坐る超豪華・超強力打線です。試合はラジオ中継されました。1回、ルースとの対決です。2ストライク1ボールからの4球目で、見事、空振り三振を奪いました。
 アドバイスに従って肩を休ませたのが良かったのでしょうか、その後も好調に投げ続け、得点を与えず迎えた7回裏。ルースは、沢村がドロップを投げる時、口が「への字」になるクセに気づき、その落ち際を叩くよう指示します。球速が落ちるからです。しかし、ルースは凡退しました。時刻が午後3時を回って、打者には逆光で、沢村の表情が読み取れなかったのです。それを伝えられた次打者のゲーリッグは工夫をします。帽子を目深にかぶって、逆光を防ぎ、見事、「への字」で投じられた沢村のドロップをホームランしたのです。結果は1-0の惜敗でした。パワーだけでなく、変化球のワンポイントをとらえて打球を飛ばす技術、投手のちょっとしたクセから球種を見抜く抜け目のなさ、肉体の酷使を避ける意識、など当時(約90年前)から大リーガーってスゴかったのですね。
 先の大戦で戦死した沢村の墓(三重県伊勢市)には、生前から宝物と呼んでいたベーブ・ルースのサインボールが納められている、というのに感動を覚えました。

 いかがでしたか?ネットのおかげもあり、すっかり身近な存在となった大リーグ。日本人選手の活躍も含め、エキサイティングな試合を大いに楽しむつもりです。それでは次回をお楽しみに。