区切りの600回を迎えることができました。ひとえに、ご愛読いただいている皆様のおかげと、心から感謝申しあげます。
数字のゼロが並んだ記念の回にちなんで、旧サイト(ブログを始めた一時期、間借りしていました。現在は廃止)で取り上げた記事をお届けすることにしました。たかが数字のゼロが、世界観、宇宙観と関連がある、という話題に、お気軽にお付き合いください。
★ 以下が本文です ★
書店で、「異端の数 ゼロ」(チャールズ・サイフェ 林大訳 早川NF文庫)という本が目にとまりました。副題には「数学・物理学が恐れるもっとも危険な概念」とあります。
「異端」といい、「危険」といい、この本が発する妖気のようなものに誘われて読んでみると、なかなか知的興奮を誘う内容でした。私なりの理解で、そのエッセンスをご紹介します。
ピタゴラスを中心とするギリシャ数学の世界は、図形の課題を扱う幾何学が中心でした。数字のゼロという概念は、必要性が薄いことに加え、そもそも非常に都合の悪い存在とされました。
「ある数にその数自体を足すと、違う数に変わる法則(1+1=2のように)」(アルキメデスの公理)というのが、彼らの前提です。ゼロはいくつ足してもゼロですから、この公理に反します。また、ある数をゼロで割ったり、ゼロをゼロで割る計算が厄介なこともご存知の通りです。
やむなく数字を扱う場合でも、全ての事象は、整数と整数の比率(racio)で表現されることが基本で、かつ合理的(rational)とされました。ですから、彼らが扱うのは、整数と分数までです。正方形の対角線の長さが、無理数(1辺が1の場合のルート2)であることは、ピタゴラス学派の最大の秘密とされてきました。
計算のしやすさ、記数の便利さなどを犠牲にしてまで、数学的な統一性、美しさにこだわり、ゼロという概念を拒絶したのがギリシャ数学の特質であったわけです。
さて、それだけなら、学問上、実務上のテクニカルな問題ともいえます。でも、アリストテレスに至って、「ゼロ」(無)と、それと裏腹な関係にある「無限」と言う概念を拒絶することは、のちのヨーロッパのキリスト教的世界観を理論面で支えることになります。2000年にわたり、なぜそうなったのか、ですが・・・・
アリストテレスの宇宙観は天動説です。宇宙の中心は、地球であり、静止している天体です。
その地球の周りを、惑星を内包する天球(水晶球のようなもの)がいくつか運動しているというのです。一番外側の天球の「向こう側」などというものはなく、最後の層で宇宙は突然終わります。宇宙の大きさは有限で、物質に満ちています。「無」も「無限」もそこにはありません。こんな宇宙観でしょうか。
で、天球はそれぞれの位置で自転しているとされるのですが、その運動の原因は、天球自身でしかありえません(地球は静止していますので)。そして、一番外側の天球を動かす力(第一動者)こそ、「神」にほかならない、というのがアリストテレスの主張です。キリスト教世界観と実にうまく適合し、長年、その世界観を支えていくことになります。
かくして、17世紀、ニュートンによって、「無限」を利用した微分、積分の手法が確立するまで「ゼロ」と「無限」の概念はヨーロッパでは、タブーであり続けました。
一方、インドを中心とする東アジアでは、仏教の「色即是空」、「空即是色」及び諸宗教における「輪廻(りんね)」などという概念に代表されるように、「無」とか「永遠」(時間における「無限」)と言う概念は、かなり普遍的なものであったと言えます。
「ゼロ」(無)がインドで「発見」されたというよりは、「ゼロ」という概念を「受け入れる」下地があって、記号化、記数法として確立した、と言えそうです。
そして、その概念と記数法は、「アラビア数字」との呼び名に象徴されるように、イスラム世界でも受け入れられ、広まっていきます。ついには、近世ヨーロッパ、キリスト教世界でも「使わざるを得ない」状況に追い込まれていったというわけです。
「ゼロ」(無)の背景に、これほどの文化的、哲学的、宗教的世界が広がっていたことを知り、眼からウロコの読書体験でした。
ちょっと壮大なテーマに挑んでみましたが、いかがでしたか?これからも、楽しくて、タメになる記事をお届けし、700回を目指す決意をあらたにしています。引き続きご愛読ください。それでは次回をお楽しみに。