How many rivers must I cross? I don't know...

幸せになりたくて川を渡る・・・

BEレガシィ セカンダリー・タービン過給不良と大量のブローバイ(以外にもあるかも)の正体

2016-01-24 12:38:36 | スバル



2015年の春先にエンジンを降ろして整備した愛車BE型レガシィB4。
何故エンジンを降ろさねばならなかったのか。
その理由はダイレクトイグニッションのコイルを留めてあるボルトの頭がなめられていてレンチが掛からなかったからだ。
点火プラグを交換するには一旦エンジンを降ろしてボルトを外す必要があった。

ではそもそも何故ボルトの頭はなめられていたのか。
とあるカーショップの車検時の点検でなめられたと思っている。
点火プラグの交換は自身で行なっているが、前回の交換時になめた記憶はない。
その後に車検を通している。
車検後にそろそろ交換時期だと思い自身でプラグ交換をしようとした際に、ボルトの頭がなめられているのに気付いた。
この時のことはここに書いてある
http://blog.goo.ne.jp/sakeichi-mashita-takahara/c/c6b09ddb98b33b15c3fa11e4e7f6ae28


今回の話は、足掛け二年に及ぶ「セカンダリー・タービンの過給不良」のトラブルシュートにまつわる話なのだが、とんでもない番狂わせなオチがあり、そのオチを仕込んでくれたのはエンジンを降ろして整備したスバルディーラーだったという内容である。




最初に異変に気付いたのは2014年の9月下旬だった。
その年の僕の釣果はとても良かった。
7月以降はほぼ毎週末の釣行で複数の尺上のアマゴかヤマメを獲っていた。
勿論その日も同様で、僕は気分よく益田川からの帰路でBEを走らせていた。
広域農道を駆っていたとき、脇から農作業を終えた軽トラックが前方に侵入してきた。
右のウインカーを点滅させて追い越しに掛かったときに感じた。
「あれ?なんかパワーが乗らないな」。

その後も直線で何度かエンジンを回して、セカンダリー・タービンまで回してみたが、やはりパワーが乗らない。
日頃は極力定速走行を心がけ、必要なときにだけスロットルを開けるという乗り方をしていると、滅多にセカンダリー・タービンが仕事をする機会はない。
それではクルマによくないと思い、その時だけは燃費を気にせずに「今だ」というチャンスがあればセカンダリー・タービンまで回すということをしていたのだが、パワー感の無さに気付いたのはそのときが初めてだった。


何が原因だろうか。
過去に点火プラグが劣化していたときに過給圧が上がりにくくなったことはある。
どのような作用機構でそうなったかは未だに分からないが、点火プラグを交換したら改善した。
しかし、このときの状況は異なる。
ブーストは設定した1.2kまで上がっている。
でも、以前ならセカンダリー・タービンが回ると離陸しそうなほどの加速感があったではないか。
それが無いのだ。


とは言えそろそろ点火プラグの交換時期でもあった。
禁漁期間に入って11月になり、僕は休日に点火プラグを交換しようとした。
その時に前述の「ダイレクトイグニッションのコイルを留めてあるボルトの頭がなめられている」ことに気付くのだが。

結果的に4本中3本の点火プラグは交換を終えた。
NGKのIRYWAY7番をいつも使用している。
でも、加速感は戻らなかった。

次にバッテリーを疑ってみた。
交換後7年を超えていた。
問題なく始動できるのが意外なほど長持ちしていたが、さすがに初期の性能はないだろう。
高回転時に電力が必要になった際に、バッテリーから充分な電力を供給できていないのではないかと考えた。
そこでパナソニックのCaos(100D23L)に交換してみた。
しかし、何も改善されなかった。

同じ電気系統ということでオルタネーターも疑ってみた。
BE/BH型レガシィの日立製オルタネーターは突然死することがユーザーの間では有名な話だった。
山の方へ行く僕は、自走不能にならぬよう交換しておいてもよいだろうと思った。
ところがディーラーからこんな話を聞かされた。

確かにBE/BH型レガシィの日立製オルタネーターはよく壊れます。
しかし、その型でも最後期のものは既に次期型であるBL/BP型のオルタネーターを搭載しています。
ある程度纏まった台数を発注しないとコストが掛かり過ぎるからです。
今のところBL/BP型のオルタネーターがよく壊れるという話はありません。
ですので、突然死を懸念しての交換は不要だと思います。

僕のBEは平成15年(2003年)4月に新車で購入した。
その翌月にBL/BP型にモデルチェンジしている。
最後期も最後期だ。
突然死のリスクは非常に少ないはず。
ということならハイアンペア・オルタネーターに換えてみようかとも思ったが、なにしろ高価だったので断念した。


そしてそのまま冬が訪れた。
釣りに行かない時期は休日でもあまりBEに乗ることはなく、そのまま2015年のシーズンが始まった。


相変わらずセカンダリー・タービンが回ってもパワー感はなかった。
それどころか燃料カットが入ったように「ガクン」と衝撃を受けることが多くなってきた。
しかし、俗に言う「ブースト0.5病」ではなかった。
プライマリー・タービンのみで過給しているときは過給圧1.1kまで上昇した。
その後セカンダリー・タービンも過給し始め、ツインターボ状態になると、息継ぎのような症状、時には燃料カットのような症状が現れるようになった。
過給圧は関係ないようだった。
0.3kのこともあれば0.5kのこともあるし、0.8kまで上昇してから症状が出ることもあった。

僕は念のためタービンの動作を制御しているアクチュエーターに繋がるゴムホースを清掃した。
しかし、ブローバイは殆ど溜まっていなかった。
以前インタークーラーを外して清掃した際にも、殆どブローバイは溜まっていなかったので、エンジンそのものの調子が悪いということではなさそうだと考えた。
では一体何だろう?
浅はかな知識しかない僕にはとても難しい問題だった。


そして同時期に他にも解決せねばならない問題が複数あった。
交換できていない点火プラグをどうにかしなければならない。
プライマリー・タービン付近のオイル漏れを直さねばならない。
水平対向エンジンの宿命、エンジンヘッド付近のオイル漏れも直さねばならない。
因みにこのエンジンヘッド付近のオイル漏れだが、14万km走行辺りから目立ち始めた。
それまでのオイル管理がよかったのか、一般的なEJ20型エンジンに比べると長くもった方だと思う。


僕は一旦セカンダリー・タービンの過給のことは置いておこうと思った。
もしかしたらタービン自体の不良かもしれない。
そうなると交換にも結構な費用が必要になる。
先ずは点火プラグとオイル漏れに対処しよう。
エンジンを降ろして点火プラグを交換し、そのついでにタペットシールも交換しよう。
タービンのオイル漏れも直して、他にもエンジンを降さないとできない整備もやっておこう。
これが2015年の4月のことだった。



プラグも交換した、タービンからのオイルの漏れも直った。
しかし、プライマリー・タービンからのオイル漏れは直ったものの、まだアンダーカバーにオイルが垂れている。
しかも結構な量だった。
一瞬ドライブシャフト・ダストブーツが破れたのかと思ったが特に傷みはない。
一体何処から漏っているのだと思いながらも、渓流釣りのシーズンはクルマのことは殆どほったらかしなのでそのまま日々は過ぎていった。


2015年7月後半に排気音の異変に気付いた。
デコトラでよくある「パタパタパタ・・・」というあの排気音。
それと似たような音を僕のBEも発し始めた。

確か8万km走行の頃だったと思う。
同様の音を発し始めたことがある。
その時は右バンク(運転席側。セカンダリー・タービンが搭載されている側)のエキマニとタービンサポート間のフランジガスケットが吹き飛んで排気が漏れていた。
今回も音が発せられている箇所は以前と同じだった。
だから最初はまたガスケットをかまさなきゃなと思った。
しかし、その後ふと気付いた。
「あっ、これはエキマニに亀裂が入ったんだ。社外品に換えてから10万km近く走ったからな。よくもってくれたほうだな」。

同じエキマニはもうアフターパーツメーカーでは生産終了となっている。
中古を入手したところでいつまた亀裂が入るか分からない。
亀裂を溶接で直したとしてもまた別の箇所に亀裂が入るだろう。
ということで程度のよい純正エキマニを入手してディーラーに交換作業を依頼した。
作業そのものの手順等は分かったが、どうせボルトが焼き付いて外れないだろうから素人は手を出さない方が無難と判断した。







取り外した社外エキマニを見て仰天した。
亀裂どころか破孔していた。
破孔した部分の耐熱布は破れていた。
相当な勢いで排気が流れてくるのだろう。
その時に思った。
恐らく、最初は亀裂程度だったのだ。
その時からセカンダリー・タービンの過給に変化が出始めたのだ。
排気が漏れるということでパワー感が無かったのだろう。
いや、でも息継ぎのような症状の原因となるのか?

疑問を感じながらも、これで以前と近いパワー感になるだろうと淡い期待を抱いていた。
社外エキマニから純正エキマニに交換したのだから、低速トルク、タービンの立ち上がりなど、フィーリングが変わる部分はたくさんあるだろうと覚悟していた。

しかし淡い期待ははかなく潰え、かなり残念な結果に終わった。
排気漏れこそ改善したものの、純正エキマニだとこんなにも薄いトルクなのか、こんなにもタービンレスポンスが悪くなるのかと落胆した。
しかも、息継ぎも改善されていない。


僕はここで初めて燃料ポンプを交換することを決めた。
これもそろそろ壊れても不思議ではないほどの距離を走っていたし、壊れたら自走不能になる。
もしかしたら空気ばかり吸って燃料が足りていないのかもしれない。


しかし、結果は何も変わらなかった。
それどころかどんどん酷くなってきた。
セカンダリー・タービン付近は油汚れでべとべと。
高速道路や山道を走った跡は、耐熱布に跳ねた油が加熱され、その匂いが車内にまで届く。
これはもう放っておけないと思い、ディーラーに点検を依頼した。


ブローバイですね。
一瞬ミッションオイルかと思いましたが匂いが全然違います。
エンジンがヘタってくるとブローバイは増えます。
ここまで増えてくると、もうエンジン載せ換えかオーバーホールしかありません。

そんなことは百も承知だ。
このBEが本当にエンジンがヘタって今の症状が出ているのではないとあなたは気付かないのか。
燃費は全く落ちてない。
カタログ燃費なんて余裕で越えて12km台後半に届く。
異音もしない。
だからこそこの大量のブローバイの原因を突き止めて欲しくて入庫させたのだ。
お決まりの回答など求めてはいないのだ。

ディーラーの話ををそのまま鵜呑みにするわけにはいかない。
アクチュエーター付近が特に汚れているのだし、ならばアクチュエーターかタービンそのものの不良かも知れないじゃないかと思い、セカンド・オピニオンを求めて、岐阜県大垣市のプレジャー・レーシング・サービスへ持ち込んだ。


点検作業開始後15分くらい経って、一人のメカニックの方が僕の方に近付いてきた。
手にはセカンダリー・タービン側のインタークーラーに繋がるパイプを持っている。

「これですね。これのタービン側のボルトが締まっていなくてガバガバでしたよ。単にはまっているだけでした。
多分このおかげでエンジンオイルも吸っていたんじゃないかなあ。
それがエンジンルームに飛び散っていたんだと思いますよ。
このパイプを元通りに戻してしっかり締めて、エンジンルームやインタークーラーを清掃しますね」。



もうこれで大丈夫だろう。
オイル漏れもなくなるし、セカンダリー・タービンを回した時にも過給圧もしっかり上がって、息継ぎもせず、パワー感も復活するだろう。
それにしてもスバルディーラーのお粗末さは一体どうしたものか。
プライマリー・タービン側のオイル漏れを直す修理をした際に、セカンダリー・タービン側のパイプのボルトを締め忘れてまた新たなオイル漏れの原因を作るのか。
いい商売やってるよなあ。

そういえば、自分でもそのパイプのボルトの増し締めをしようとしたんだった。
でも、ボルトの頭があさっての方向を向いていてアクセスできなかったんだ。
あれはそもそも締めてなかったから頭が地面を向いていたんだろうな。



プレジャー・レーシング・サービスからの帰路、機会があったので思いっきりエンジンを回してみた。
嘗ての鋭さはないものの、一気にエンジンは吹け上がり、しっかりと過給圧1.2kまで上昇した。
そして、パワー感も着いてくる。
さすがに車齢の若い頃の目の覚めるような加速はしないけれども、走行17万kmならこれで充分じゃないかな。
僕はまだまだBEを降りるわけにはいかない。








2016年 年頭のご挨拶~釣行記の思惑

2016-01-01 02:12:16 | 鮭一の徒然
2016年となりました。
このブログに訪れて頂ける皆様ありがとうございます。
引き続き2016年もよろしくお願い申し上げます。

以下本文








一年間の浪人生活を経て東京の私立大学へ合格したのは1993年のことだった。
東京で暮らすには自動車は不要だった。
何処に行くにも鉄道を利用していたし、自身で運転免許も所持していなかった。

幼い頃に鉄道が好きだった僕は地方から上京してきた身であるにもかかわらず、都内・都下に張り巡らされたJR路線の色分けは既に知っていたし、地下鉄に関しても当時の営団路線に関して言えば区別は着いた。
地元に戻って14年あまり。
その間に相互直通乗り入れも広がっただろうし、新たな路線も開通している。
今では案内図を見ながらでないと東京の鉄道をスムーズに利用することは出来ないと思うが、当時の自分は我ながらよく分かっていた方だと思う。
何処そこの駅に行くにはどの駅でどの路線を乗り継げばよいか、同じ駅名でも乗り換え移動の距離が少ないのはいずれの路線か、更に何両目付近で乗り降りするのがよいのかということも頭の中にインプットされていた。


鉄道の車両そのものに興味が無かったわけではない。
車内各部の仕様の違いなどには気が着いたし、製造両数の少ない車両に出会えば心が躍った。
しかし、所謂「鉄ちゃん」と呼ばれるほどに詳しかったわけでもないしのめり込みもしなかった。
僕は鉄道に乗って移動する、旅をするということに興味を持っていた。

当然の流れとして、長期の休みには青春18きっぷを利用して旅に出ようと思う。
当時の恋人と連れだって旅を計画した際にこんな会話をした。
「ねえ、何処に行くの?」
「う~ん、取り敢えず、朝7時くらいに上野を発って、夜の7時くらいに到着できるところまで行ってみようか」
時刻表を繰っていくと、出発も到着もちょうど目当ての時間帯に新潟県の村上駅まで行けることが分かった。


僕が幼い頃に好きだったものとして、鉄道だけでなく鮭科魚類もある。
ただし今ほどのめり込んでもいないし、詳しくも知らない。
だから村上という街がどんな街なのかその時は何も知らなかった。
「じゃあ、ちょっと村上のことを調べてみよう」
僕らは部屋を出て近所の図書館に行ってみた。

村上に関する記述を調べるのは彼女に任せて、僕は古今和歌集が並べられた一角に立っていた。
「ちょっと!○○っち!おいでよ!」と彼女が興奮した声で呼んだ。
僕は手にした本を棚に戻して彼女が呼ぶ方へと向かった。
「ほらっ!これ見て。村上って、鮭の街なんだよ。絶対に行きたいでしょう?」



このときに村上に行ったことが、その後の自分の人生に大きく影響していると思う。
単なる憧憬だった鮭科魚類に対する感情は、憧憬の念はそのままに生態や生活史、種の分化に対しての強い興味が加わった。
「イヨボヤ会館」という名の鮭の博物館で鮭科魚類に関する記述や展示に触れてから、鮭の遡上や産卵もこの目で見たいと強く願うようになった。

僕は用も無いのに毎号分厚い「JR時刻表」を購入してはタイムテーブルを具に検証し、車両編成を確認した。
どの時期にどのような切符を使って、どのような行程で巡るのが得策か判断しようとしているうちに、僕は時刻表の巻末のピンクのページの内容を殆ど暗記していた。
鮭科魚類と鉄道旅行への思いとが相まって、北斗星で北海道へ行くという計画を実現させる日が近付いてきた。



当時の僕がよく読んでいた鉄道雑誌は「鉄道ジャーナル」と「旅と鉄道」。
ご存知方なら説明するまでもないのだが、前者はまさしく鉄道に関するジャーナリズムの雑誌である。
社会の中での鉄道の役割というものに主眼を置いた記事をその号の主記事としており、試乗レポート即ち「旅行記」が付随していた。
後者の方も読んでそのままの内容だった。
鉄道を利用した旅の雑誌で、車両そのものの詳細な記述はなく、車窓の風景や行く先々と地域に棲む人々の様子、それに加えて各ライターの述懐が書かれていた。
まさしく「旅行記」の雑誌だった。

僕は彼ら「レイルウェイ・ライター」に憧れ、長旅の際にはいつもルーズリーフを持ち歩き旅行記を書いていた。
宿で書くこともあれば待合時間に入った駅構内のコーヒーショップでも書いた。
勿論、車内で認めることもあった。

それは今でもすぐに取り出せるところに置いてあるのだが、先ほど10年ぶりくらいに手に取ってみた。
読み返すと全く酷い代物だ。
名だたるレイルウェイ・ライター諸氏の物真似なのか亜流なのか、板についていない背伸びをした言い回しや表現と稚拙なそれが混淆し、主述関係や掛かり受けが支離滅裂になっているところも散見される。
推敲していないとは言えそれはそれは酷いものだった。

ただ、ありがたいこともある。
人の記憶というものはまったく頼りないもので、時間の経過とともに消えて行くだけでなく、入れ替わりも擦り替わりもする。
僕は稚内には一度しか訪れていないと思っていたのだが、実際には二度訪れていた。
一度目はノシャップ岬に行っている。
サロベツ原生花園に行きたかったのだが、11月に入るとレンタサイクルが休止となるため諦めたのだった。
そして二度目の稚内旅行でサロベツ原生花園に行っていた。
記憶の中では借りた自転車の前輪タイヤの空気がパンクしたようなほど抜けており、遮るもののない原野を吹き抜ける風に煽られて一向に前へ進まなかったことを思い出した。

旭川に関しても記憶が錯綜していた。
素通りしただけで降り立ったことはないと今の今まで思っていたのだが、降り立っただけでなく宿を確保して泊まっていた。
旭川ターミナルホテルと記してある。
そうだ、確か室内も清潔で調度品もよく、しかも駅直結で凄く気に入ったのだった。
旭川と言えば、数年前の僕が病気療養のため社会から脱落していた頃、精神的支えとなってくれた女性が棲んでいた。
現在は音信不通となってしまったが、毎年暮れになると彼女のことを思い出す。
ここ2、3日、ちょうど思い出していたところだった。

釧路には旅の行程最後に訪れたと記憶していたが、実際には全ての渡道で行程の途中で訪れている。
夢が丘展望台でギターを掻き毟った記憶が強烈であったため知らぬ間に擦り替わったのだろう。

そうだ、僕はギターを抱えて北海道を旅していたのだ。
確かあったはずと思い、探してみるとやはり出てきた。
旅行記の途中で歌詞めいた言葉が並べられ、その上にコードネームが記されていた。
僕は車窓から眺めているときに、ここだなと思い立った駅で下車し、そのままギターを弾きながら次の列車を待っていた。
その時に曲も作っていたのだった。



落ち着かなかったた20代も終盤に差し掛かり、僕は漸くまともな社会人となった。
マイカーを持つようになると、計画立てて旅をしなければすぐに行き詰る鉄道旅行は窮屈に感じた。
思い立ったらすぐに出発できる自動車の方が、現実逃避には好都合だった。
鮭科魚類への憧憬は持ち続け、自分の手で釣ってみたいと思いながらも、「渓流魚を釣るのはコイ科の魚を釣るのとはわけが違う。誰かに手解いてもらわないと釣れないし上達もしないだろう」と思い実行に移していなかった。
ただ、車での現実逃避先はいつも固まっていた。
自分の棲んでいるところよりもとにかく山の方へ、方角は北の方へと向かった。
金曜の夜に帰宅するとそのまま車に乗りこみ、夜を徹して一般道を駆けた。
高速道路は好まなかった。
行く先々の山あいの道を縫い、目に着いた流れや湖の側に車を停めて昼寝をした。
開け放った窓から届く山の薫りが心地よかった。


30歳を過ぎてから、大阪から着任してきた直属の上司の趣味が渓流釣りと知ったときに狂喜した。
「一度、一緒に連れて行ってください。」
職場の人と休日に顔を合わせるなんてまっぴら御免と思っていたのに、そんなことはすっかり忘れて懇願していた。
僕の渓流釣りの始まりとなった。




社会から脱落してしまった病がかなり回復してきた頃、釣行記を書いてみたくなった。
「北海道紀行を書き直してみようかな」と思ったのがきっかけだった。

療養中に色々なものを失った。
社会の中での立場は勿論、物質的にこれまで手に入れてきたもの、親交のあった友人たちとの付き合いは自ら絶ってしまった。
人生の夢や希望の殆ども諦めざるを得なくなった。
それが生業たりえなくてもいい。
自分が好きなことや得意なこと、それらに携わることによってある種の満足感や充実感を味わい、願わくは自己療養にもなることは一体何だろう。
出来れば極力元手の不要なことで何かないだろうか。

僕はずっと音楽が好きだったが、読書も文章を書くことも好きだった。
周囲学生仲間の錚々たる文章を読むと、到底自分にはそれを生業とするようなセンスも才能も無いと否応なく思い知らされたが、翻訳にも興味があったし、レイルウェイ・ライターにも憧れていたではないか。
先ずは手始めに北海道紀行を書きなおそうかと一瞬脳裏をよぎった。
次の瞬間、それが「釣行記」に置き換わった。

ささやかでもいい、自分が幸せを感じること何だろうと考えた時に、それは何を差し置いても「渓流釣り」だった。
たくさんのものを失ったものの、釣りだけは譲れない。
自分から渓流釣りを取ったら死ぬ。
ならば、釣行記を書けばいいではないか。




僕は国産文学を殆ど読んでいない。
だからと言って海外文学に精通しているかと言えばそうでもない。
気に入った本を何度も繰り返し読む。
好きな場面や表現が出てきたページを折っておき、その周辺を読み返す。
時折全編を通して読み返す。
こんな読み方だから当然読書量も多くない。
でも、舐めるようにゆっくり読む。
多分、鑑賞は出来ていると思う。

自身で釣行記を書く前に開高健を読んだ方がよいのだろうかと思ったがそれはやめた。
中途半端に影響を受けると救いようのない亜流になってしまう。

このままでいい。
かつての旅行記のように背伸びをする必要など何処にもない。
自分のための釣行記なのだから。
今のまま始めよう。




実際に始めてみると、やはりブログをフォーマットにしているため、自身の趣味趣向を炸裂させたようなものは出来ない。
これはブログなのだから、読んで頂ける方もいらっしゃる。
そう思いながら中途半端な釣行記を2014年は書いていた。
ところが2015年は違った。
先ず題材となる良い釣りを殆ど出来ていない。
それが原因で釣行記を書くモチベーションが殆どなかった。
本当にしょうもない釣行記ばかりだった。

でもここで少し振り返ります。
自身の気に入る形で書いて行きたい。
そうなると2016年は「単なる記録」的な釣行記と、やけに気合が入っているなと感じられる釣行記と二極化するかも知れません、
読んで頂ける皆様には少しでも魅力的になるよういします。
それでも読みにくかったらごめんなさい。


こんな鮭一ですが2016年も何卒よろしくお願いします。