高水と酷暑の果てに秋益田 嵐ぞ過ぎよ平水待つ瀬 ~平成末世の益田川にて 納竿のうた
釣りに関することでの愚痴は控えたいと考えているのだが、最近の冴えない釣りについては何を書いても愚痴になることは明白だった。
そう考えて沈黙していたのだが、最終釣行くらいは何か書き留めておきたい気持ちもあり今こうしてキーボートを叩いている。
可能な限り愚痴にならないようにするつもりだが、内容を公正に評価すれば不平不満となろう。
ということはやはり愚痴になってしまうのかな。
2018年は天候や水況に恵まれないシーズンであったことは間違いない。
本流の大物狙いでは一番よい時期だと考えている正にその頃に災害級の水が出た。
それが収まると次は異常なまでの暑さ。
やっと涼しくなってきたと感じる頃にはまた降雨続きの高水。
そもそも釣りが成立しないのだ。
いや、正確に言えば、どんな魚でもよいからとにかくアマゴの顔が見たいというのであれば降り立つ箇所はある。
益田川とその支流群はそんなに懐の狭い川ではない。
考えようによっては、そのような窮状の中でさえ、何とかして本来出したかった魚に近い魚を出すことができれば、それはまた釣りの楽しみ方のひとつにもなろう。
ましてや偶然ではあろうとも、それが理想の形に近い釣り方であったり、まさしく出したかったような魚を獲ることができれば、高い満足感を得られるだろう。
それらを理解した上で敢えて僕は思うのだ。
「それではやはり自身の拘る釣りの形を曲げてしまうことになる」と。
「拘り」と言ったけれどもそんなに格好つけたつもりではなく、単に「こういう釣りがしたい、そしてその釣りでいい魚を出したい」という思いがあるだけのことなのだが、要するに「釣りのスタイルを優先するのか」ということと「釣果を優先するのか」ということの何れを採るのかというときに、僕はスタイルを選ぶということだ。
「その釣り方でいい魚を出したい。別の釣り方で出しても意味がない。」
そう考えているのだ。
たかが釣りに何故そんなストイックになるのか、何故そんな美学のような観念を持ち込むのか、端から見たら馬鹿げているだろうと思う。
僕だって当事者でなければ「なんて酔狂な趣味だろう」と思うはずだ。
でもこれは趣味なのだ。
義務や仕事ではないのだ。
趣味なのだから、他人に迷惑をかけなければ、理解されない拘りを持っても何ら構わないのだ。
だから僕は僕の釣り美学を貫き通したい。
だがそれを貫こうとすると、思い通りの釣りができない状況がずっと続いていた。
これまでで一番面白くないシーズンだなと感じていた。
本流竿を振り足りない気分のまま9月を迎えた。
本心を言えば、禁漁まで本流での釣りが可能ならば僕はずっと本流竿を振っていたいのだ。
しかし9月になっても一向に水は落ち着かない。
僕が入りたい箇所については、平水より50~60cm高い水位が続いていた。
流れも全く異なる。
魚が着いていると思われる流れの筋はあるにはあるのだが到底届かない。
駄目で元々と思いながら届く範囲で流してみたが案の定何の反応もない。
僕は本流の様子を伺いつつ、遣る瀬無い思いでダム遡上のアマゴに狙いをシフトして地道にやっていた。
でも、タイミングが合わない。
全く空振りばかりだった。
多くの管轄漁協での今シーズン最終二日間は暦上は土曜日と日曜日になっているが、台風による悪天候の予報があるからか、金曜に休みを取って釣行した釣師が多かったようだ。
金曜はダムに注ぐ小渓流には、全くと言ってよいほど入るところがなかった。
僕はやむを得ず本流に入った。
とは言え、益田川本流の中山地区のように水量豊かな区間ではなく、開けた渓流のような様相だ。
段差後の瀬から岩盤帯の淵を狙おうとシマノの刀を携えて降りていった。
仕掛けを着けようと穂先を少し伸ばした際に、何故あんなことが起こったのか全く見当が着かないのだが、手元が狂って竿を落としてしまった。
当然穂先は折れた。
同時に心も折れたようだ。
何かが終わった感じがした。
冴えない釣りが続いていて腐りそうだったけれども、釣れないだけなら構わない。
水況を思えばやむを得まいと諦めが着くし、ダム遡上のアマゴ狙いの釣りはサツキマスと同じでタイミングがモノを言うし、釣れないだけなら自身の中で折り合いを付けて処理可能なのだ。
ところがこのところの釣りは、何かしらケチがついて終わることばかりだった。
ケチの内容にまでは言及しないけれども、気分よく、気持ちよく、楽しくなりたいのにそうはなれない。
ならばもう釣りはしなくてもいいじゃないか。
朧に抱いていた思いが急に鮮明になり始めた。
最後に最悪のケチが着いたな。
刀を折るなんて。
それだけは何としても起きて欲しくないことだったのに。
自宅からはかなり距離のあるところまで来ていた上に疲労もあったため、もうこのままここで車中泊しようとも考えた。
それでも折れた心を奮い立たせ、「いや、後悔するかもしれない、念のために確認」と思い直し、ダムに注ぐ小渓流まで上がっていくと、前日から一帯を占拠しているグループが今夜も泊まり込みのご様相だった。
もう今度こそ移動するのも面倒だったし、そのまま山上で車中泊とした。
翌朝も特に早起きせず、目覚めてそのまま竿も出さずに帰路に着いた。
既に予報通り雨が降っていたが、やろうと思えば釣りは可能ではあった。
しかしギラギラしている釣師の近くには入りたくない。
はっきり言ってしまうと、僕がこの時期に奈川を避けるのはそういう理由なのだから。
もっと余裕を持って釣りをしたいのだ。
自身の釣りに拘りを持つのは全く構わないと思う。
寧ろ節操なく色々な釣りのスタイルを噛って中途半端な釣技しか身に付かないよりも、ひとつのスタイルに拘って突き詰めることを僕は礼賛したいくらいなのだ。
ただし、その拘りや、拘り故の欲望や憧憬の追求のために、他の釣師の釣りを制約することになったり、邪魔をすることになったり、不快な思いをさせたりしてはいけないと思う。
先行者優先の原則は尊重されるべきだと考えているが、今日僕が目にした光景はその範囲を逸脱していた。
結論だけをはっきり言う。
「鼻曲がり婚姻色の雄を釣って剥製にする」ということに拘泥するあまり、周りが見えなくなっている釣師が居るのだ。
僕だってそういう魚を釣りたい。
釣ろうと思ってここに来たのだ。
でも先行者が居れば仕方がない。
別の箇所を探して入ればよいのだ。
余裕がないと、そこしか目に入らなくなるのだ。
今回は違うのだが、その結果割り込みや出し抜きという非礼を働くことにもなる。
尤も当人は非礼とは思っていないだろうが。
でも残念なことに何処の釣り場にもそういう釣師がいるものだ。
そういう人とは離れたい。
僕はその場を立ち去った。
帰路、気にはなっていたがこれまで入ったことのなかった林道を走ってみた。
忘れ去られたような沢が幾つかあった。
多分イワナくらいは釣れるだろう。
時間は充分あったが素通りした。
嘗ての僕ならその状況で竿を出さずにそのまま帰るなんてことは我慢ならないことだったのに。
随分落ち着いたものだな。
そうか、自身の拘りのスタイルから外れたからだな。
下り坂の右カーブを曲がると、突如イノシシの親子と出くわした。
「あっ、まずい、突進されるか!?」と思ったが、母イノシシは我が子に目も遣らず、一目散に山の斜面を駆け上がり逃げていった。
残された子イノシシは大慌てで母の後を追おうとしたものの斜面を登れずに落ちてきた。
暫く林道上を駆けて行き、それから山の斜面に消えた。
我が子を見棄てる母。
サケ科魚類ですら、結局は息絶えるとは言え、親魚は暫く産卵床の周りを守るものだがな。
何年に一度か、或いは何十年に一度かというほどの水が出た2018年の益田川水系。
岸辺の流木類や倒れた植物を見ると、こんなところまで水が上がってきたのかと驚愕せざるを得ない。
それでも生き残り、生き抜いた強い魚たちが今まさに繁殖期を迎えようというところなのだ。
そのまま生命を繋いで、強い遺伝子を引き継いでもらおう。
まだあと一日あるけれども、これで僕の2018年のシーズンの納竿としよう。
益田川、来年は楽しませてほしい。
それまでに、豊かな益田川に少しでも戻っていてほしい。
益田川渡りし季節過ぎゆくも いく歳いく度 われ渡らむや
~How many rivers must I cross? I don't know...