初めて刀を振ったとき、使い慣れたエアマスターとは全く正反対の調子特性故、大いに戸惑った。
竿全体のアクションやモーメントを利用して振り込むエアマスター。
それに対して正にその名の如くビシッと振り抜ける刀。
ところがその調子に慣れるのにさほど時間を要しなかった。
名竿とはそういうものなのかもしれない。
寧ろ僕は初代エアマスターから二代目エアマスターに持ち替えた時の違和感の方が長引いた。
「二代目はこういうものなのだ」と、その調子を身体で覚え、何故その調子になるのか理解し、そして自身の中で折り合いをつけ納得するのに2シーズン要した。
3シーズン目に当たる今年は、咋シーズン痛めた右肘が完全に回復していないこともあったため、SMTの穂先ではなくチューブラ穂先で使っている。
穂先に金属があるかないかでかなり持ち重り感が異なる。
持ち重り「感」だけでなく、実際に右腕にかかる負担が大きいのなら、悪影響を与えるかもしれない要素は省きたいと考えたからだ。
それに、仕掛けの接続部分で接続具やゴムを介している僕の分割仕掛けでは、SMTの恩恵にあずかることはなかろうと考えたこともある。
もしチューブラ穂先に換えても持ち重り感が解消されないままだったならば、僕はもうエアマスターを置くつもりでいた。
その時は「10mという長竿でありながら、本流ヤマメ竿の傑作と認める『スーパーゲーム刀』の延長にあるかのような振り心地」と細山さんの言であるかのようにシマノのカタログに記載されていた「SUPER GAME SPECIAL LONG 95-100ZP」をメインで使おうと考えていた。
話を刀に戻そう。
構えた時の持ち重りの支点はエアマスターは竿全体の長さの中間地点より少し手前に感じるのに対し、刀は元竿の上端辺りか。
持ち重り感に関して言えば明らかに刀の方が少ない。
扱いやすく感じる所以だろうと思う。
また、これはシマノの本流竿全般に通じると思うのだが、この持ち重り感の少なさがシマノの本流竿が広く浸透していることの理由だと思う。
とにかく長さを感じないし扱いやすい。
そして、こと刀に関しては凄くシャンとしているというか、ビシッと1本筋が通っているように感じる。
更には「細身肉厚設計」との触れ込み通り、手にしたときに「なんて細いのだろう」と驚いた。
それでいてか弱い感じは皆無であり、実感としては「肉厚設計」により、とても頼りがいのある強靭な竿だ。
だからと言って感度が損なわれているわけではない。
材が薄い方が感度は良くなるように思うが、刀に関してはそれは当てはまらないと思う。
金属でできているのかと思うくらい筋のある強靭さと感度なのだ。
ならば魚が掛かったときも硬くてなかなか曲がらない竿なのかというと全くその逆なのだ。
穂先から順に曲がってスッと胴に重みが乗る。
曲がっていくとき、即ち直線状態の各節が弧を描いていく様は、芸術作品を見ているかのように美しい。
そしてまた美しいだけでなく、その様は緻密にプログラムされた一連の動作を再現しているコンピュータの解析画面のような精巧さもある。
一度胴に重みが乗ると、何処までも曲がるように思えるほどの粘り。
もっと引いてもらって構わない、引けよ、絞ってやるから、折れる筈がないのだから・・・と思えてくるほど、まるでばねのような弾力。
ひとつひとつの特性を単独で備えているのではなく、全て兼ね備えている。
こんな素晴らしい竿ができるものなのかと驚愕した。
ただ僕にとっては惜しいのはその長さ。
僕はもう10m、10.5mという竿でフィールドに立つことが前提になっているため、9mでは足りないのだ。
長さを必要としない釣り場では積極的に刀を使う。
しかし、そうでない時は残念ながら持ち出せない。
でも今日こそは刀でいい魚を獲りたい。
2017年7月9日
朝一番で入ろうと考えていた益田川のポイントは無理だった。
水位が上がっているし、流れも弱まっている。
これでは刀でなくとも太刀打ちできそうにない。
仕方なく別のポイントへ向かうが、今日に限ってそこには先行者がいた。
よし、ひとまず刀は諦めよう。
竿に拘らずに、この時間帯に有望なポイントに入ろう。
僕は少し上流にクルマを走らせた。
9mの刀では届かないポイントでエアマスターを振り、25cmくらいのアマゴと35cmくらいのニジマスを2匹釣った。
相変わらずアマゴよりニジマスの方がたくさん釣れるなと嘆かわしい気持ちでそのポイントを後にして、朝一番で先行者が居たポイントに戻ってきた。
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今日は刀で釣りたんだよ。
心の中で呟いて流し始めた。
誰かが流した後だからという理由ではないと思う。
天候と時間帯が大きく影響しているのだろう。
見事にアタリがない。
アマゴは1匹も釣れない。
尺近い立派なウグイが掛かり、掛かった瞬間は激しく首を振る。
一瞬本命と間違えるが直ぐにバテてズルッと水面に顔を出し引き上げられる。
その繰り返しだった。
もう今日は諦めて帰ろうかと思った時、ふと上流側の平瀬が気になった。
一見何もなさそうなフラットな流れに見えるが、上流側から次第に深くなりそしてまた浅くなる。かけあがりとかけさがり?(或いはその逆か、はたまた視点をかえればいずれもかけあがりか)が続くポイントだった。
そういえばいつも素通りだが、過去に竿を出したときは20cm台の小型ではあったが、次々にアマゴが掛かったことを思い出した。
恐らく捕食しやすい流れなのだろう。
ちょっと流してみようかと、さほど期待せずに流した。
最初は相変わらずウグイのアタリばかりだった。
それもどうやら群れに当たってしまったようで、よく肥えた立派な尺ウグイが次々と刀を絞ってくれた。
いい加減にしてくれよ、ご苦労さん、と思いながら流していたとき、ウグイとは異なるアタリが襲った。
アワセを入れるとシャープな首振りと走りで楽しませてくれたのは紛れもないアマゴだったが、体長は20cmそこそこだった。
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とにかく、アマゴが釣れてよかった。
ウグイばかりでは情けない。
小さなアマゴを眺めて「ありがとうな。楽しかったよ。」と、知らぬ間に声をかけていた。
「楽しい~。釣れれば何でも楽しい。」
まさかそんな言葉が細山さんの口から発せられるとは思ってもみなかった。
テレビ向きの言葉かも知れないが、でもそう言っているときの笑顔は作り笑いではなかった。
シマノの番組で長良川でサツキマスを狙っていたとき、掌くらいのアマゴを釣る場面がある。
ヤマメ域に在住の方だけあって、最初は「ヤマメだ」と言うのだが、直ぐに「アマゴだ」と言い直したことも僕には印象に残った。
そうだ、釣りは楽しまなきゃ。
漁として釣りをしているのではないのだ。
色んな接し方があり、時には修行のようなストイックな釣りをすることがあるかもしれないが、根本的には楽しまなきゃいけない。
でも今日は寂しいですよ。
こんなに寂しい気持ちで釣りをしたことはないです。
本当はこんなことを言ってはいけない、お送りしなければならないのだけど、細山さん、残念でなりません。
そもそも僕は細山さんに親交を持って頂いたわけではない。
ただ尊敬して、崇めて、憧れていただけだ。
岐阜の釣具店、やすやさんが主宰した「長良川サツキマス実釣会」でたった半日ご一緒させて頂いただけだ。
その時の記憶が鮮烈で、忘れられない思い出となっているだけだ。
テレビや漫画の世界のヒーローに憧れているのと同じようなものだ。
それでこんなに寂しい気持ちになるなんて馬鹿げているという人もいるだろう。
でも本当に寂しくて残念で、物凄い喪失感なのだ。
サツキマス実釣会の当日、不案内なポイントで朝一番に何処に入ろうか困っていた。
結局僕は暗がりの中で僅かな光に反射する川面や岩の形から入川個所を決めたのだが、明るくなると「これはいいぞ。朝一番でマスが入ってきそうだな」と思った。
そして細山さんが近付いてきて言葉を掛けてくれた。
「おお、いいところ選んだねえ。朝一番でサツキマスが入ってきそうだね。」
その言葉に僕が狂喜したのは言うまでもない。
参加者各々の釣りを一旦止めて、細山さんの釣りを拝見する時間になった。
細山さんが入ったポイントは、前週に僕が試し釣りをした流れだった。
しかも、何故そこを選んだのかという理由が、僕が考えていたのと同じだった。
「朝のうちにね、下のひらきやトロ場で休んでいた奴がこの時間帯になるとね、こういうところに入ってくるかもしれないんだよ」。
そして探っていく順序も同じだった。
自分の川見も悪くない、自信を持っていいんだなと安心した、
細山さんが振る刀は、まさしく刀のようだった。
ひゅっと振り込まれ、着水した仕掛けはあっという間に馴染む。
何故そんなに早く馴染むのか不思議でたまらなかった。
ひとたび流しが始まれば、まるで目印が水面を滑るようにスーッと流れていく。
美しい。本当に美しい。
他人の竿裁きやドリフトを見て「美しい」と思ったことは他にない。
伝統芸能の類を見ているような気分になり、細山さんのことを人間国宝、リヴィング・レジェンドと思った。
そしてそのまま伝説になられた。
そういえば、その時の細山さんは根掛かりをしてしまったんだ。
ヒュッとアワセを入れた時、僕ら参加者が「おおっ!」とどよめいたんだ。
一瞬ののち、細山さんが振り返ってニコッと笑ったんだ。
そしてそのまま川から上がってくる。
「ちょうどいいや、糸同士をつなげるやり方を教えてあげるよ。すこーし結び目が大きくなるけどね、これが一番強い。サクラマスが掛かっても切れない」。
そう言って、また僕らの方を見てニコッと笑った。
実際その結び方は凄く強い。
発電所の放水口の直下で50cm近いニジマスを掛けた時、その方法で繋いだ水中糸は切れずに竿が折れた。
そういえば、その結び方でシロザケも獲れたんだ。
「細山さん、鈎のチモト付近は二重撚りにしてますか?」
「してるよ。」
「どうやってやるのがよいですかね?」
「ああ、簡単だよ。ちっとも面倒でないよ。外掛け結びの後にこうして二重にして、後はさっきの糸を繋ぐときの要領で・・・ほら!」
「ありがとうございます」
「これでね、2本の内1本は切れて、残りの1本だけで獲った魚も居るんだよ」
この後、僕は常に二重撚りにしているのだが、1本は切れて残りの1本だけで獲ったということが少なくとも二度ある。
細山さんにしてみたら、僕らは初心者同然。
こんな初心者の馬鹿げたくだらない釣りや質問に付き合わされて正直面倒だったと思う。
それでもイヤな顔は全くしないで、テレビで拝見するときと同じ、あの穏やかで優しい話し方と、佇まいと、眼差しで僕らに接してくれた。
そんな風に接して頂けるなんて、本当に希有なことであり、光栄この上ない。
本物の名人、達人と呼ばれる方とはこういうものなのだろう。
僕ら裾野の素人にとっては感謝してもしきれないくらいありがたいことだ。
このように感じている釣り師は大勢いると思う。
何故なら、細山さんほど有名な方なのだから、「どこそこの釣り場で会った」だの「話をした」だの、その類のネタは枚挙に暇がないのだが、細山さんの評判を落とすような悪い話はひとつも聞いたことがないのだ。
いや、もしかしたら親しくしてらっしゃった方には厳しく指導をされる場面もあったかもしれない。
でも僕ら「その他大勢」「その他一般の釣り師」「裾野の釣り師」にとっては、穏やかで優しい細山さんが全てなのだ。
僕ら本流師の憧れ、ヒーロー、カリスマである細山長司は、接しにくいバリアやオーラを纏っているのではなく、穏やかで優しい「細山さん」なのだ。
我々の良心、精神的支柱なのだ。
今抱いている喪失感は、この精神的支柱を失ってしまったことによるものなのだろう。
肉親を亡くしたというのとは異なる。
そのような悲しみや寂しさではない。
僕らにとって本当に大切なものを喪ってしまったという虚無感を伴う喪失感なのだ。
真実は何か、それが分からないまま、噂レベルで訃報を耳にしたのは7月6日だった。
どうやら真実らしいと分かってきた翌日、翌々日・・・日が経つにつれ、現実として受け入れられるようになると、次第に寂しさが募る。
繰り返すが僕は細山さんに親交を持って頂いたわけではない。
サツキマス実釣会でたった半日ご一緒させて頂いただけだ。
細山さんの記憶に僕はない。
それでも本当に大切なものを喪ってしまった、あの優しい口調と眼差しと穏やかな佇まいに触れることはもう出来ないのだと思うと、涙がこみ上げてくる。
馬鹿げていると言われるだろうが、釣りをしている最中も、帰路の車中でも、外回りの営業の途中でも。
玉網の中で、釣ったアマゴを暫く眺めていた。
大物が釣れなくてもいいや。
昨日、今日と丸二日間、細山さんを偲んで刀を振れた。
「今回は残念だったけどね、また振ればいいよ」。
細山さんなら、こんなことを言うだろうなあと思いながらもう少しだけ刀を振っていると、35cmくらいのニジマスが食ってきた。
ビュンビュン走って高々と何度も水面からジャンプして楽しませてくれた。
寂しいけど、楽しい。
流れの中は夢いっぱいだ。
また来週。
―完―
流れの中は夢いっぱい ~今日は刀で釣ろう~ 南飛騨 益田川にて 【後編】