How many rivers must I cross? I don't know...

幸せになりたくて川を渡る・・・

Levi's 501

2018-12-16 11:52:28 | 鮭一の徒然

もう30年近く、部屋着のボトムはブルージーンズを穿いている。

15年くらい前までは、リーバイス501(本当は「リーヴァイス」と書きたいところだけど気取った感じなので「リーバイス」とします)のノンウォッシュ、最近の言い方だと「リジッド」、つまり洗いがかかっていない「生デニム」の状態で購入し、洗って縮めて自分の身体にフィットさせるということをしてきた。
「洗って縮めて」と書いたが、実際には殆ど洗わずに、穿いて擦れてアタリを出して、濃い色を保ちながら穿き込んだ感じを出そうとしていた。
不衛生な話だが、それがいいと思っていたのだ。

当時は上野のアメ横や、名古屋の大須辺りに行けば、そういったノンウォッシュの501が安く買えた時代だった。
ある程度穿き込んだら次の501を購入して穿き込む。
僕はそのサイクルを東京暮らしの間はずっと続けていた。

勿論、穿き込んだ501は部屋着ではなく外出時に「お洒落着」として活躍してくれたし、近所のスーパー・マーケットへの食材や日用品の買い出しには、作成(生成?仕込み?)途中の501を穿いて出かけていた。
要するにファッションとしてだけでなく、実用面でも大いに役立ったのだ。

ただし難点もあった。
色そのもや色の落ち方は、同時代の製品、要するに「現行モノ」ではどんなに頑張ってもカッコよく仕上げるのに限界があった。
染料や生地の生成方法によるものだと考えていたのだか、所謂「ヴィンテージ」のリーバイスのようにはなり得なかった。



東京の部屋を引き払い多治見に帰って来て17年以上が過ぎた。
転勤で一時期横浜に住んでいたこともあるが、だいたいは多治見に住んでいると言ってよいと思う。
社会人ともなればブルージーンズを穿く機会は極端に減る。
夏季は週末に釣りに行くだけ、冬季は寒い多治見で週末の愛犬の散歩に行くだけ。
わざわざ気を吐いてリーバイスを買い求めなくてもよいなと考えるようになった。


リーバイスに代わって、冬の始まりと共にユニクロのレギュラー・ストレートのワンウォッシュを買ってくるようになった。
まだ新しいうちは生地にもある程度の厚みがあり、冬の寒さも凌げる。
しかしもともと薄いペラペラの生地だから、穿き込んで色が落ちたら暑い夏場でも穿いていられるくらいにくたびれてやれてくる。
ある意味好都合なわけだ。
そういうわけでここ何年かは、かつてリーバイスを愛用していたことが嘘のようにユニクロのお世話になっていた。
心境としては複雑だったが、色そのものや色の落ち方はリーバイスの現行モノよりもヴィンテージ感が強く出せたのも「これでいいか」と思わせた要因だった。



先日、この冬の愛犬の散歩を乗り切るために、ユニクロでワン・ウォッシュのレギュラー・ストレートのブルー・ジーンズを買ったのだが、これが酷い代物だった。
試着したときにすぐに違和感を覚えたのだが、これまで穿き続けてきたのと同じサイズを選んだのに、シルエットが物凄く緩い。
太ももの辺り、要するにワタリから裾までかなり太めになっている。
ウエストは変わらないので、腰から下がダボッとした感じが強く出る。
なんだか、ここ暫く女性の間で着用者の多い「ワイドパンツ」のような感じだった。
仕様変更があったのかと店員氏に確認したが、そういう話は聞いていないとのことだった。
製造方法が適当なのだろう。
何しろ3,000~4,000円で買えるジーンズなのだから。


「よし、これは冬場の愛犬の散歩を乗り切るためのアイテムだ」と割り切って購入した。
しかし、逆にそれを機に、もう一度リーバイス501のノン・ウォッシュが欲しくなった。
もう一度、自身で穿き込んだ一本を作ってみたくなった。


インターネットで調べてみたら、ウエストもレングスも過去と同様に選べるノン・ウォッシュが、それなりに安価に入手できるようだ。

試しに20代前半の頃に自身で育てたリーバイス501の当時の現行モノを箪笥から出して穿いてみた。
同じサイズで問題なく穿ける。
モッズたちは、ジーンズと言えば501だったんだよ。
還暦モッズ・スーツ計画のためにも、やっぱりここで一本501を買っておかねばならんな。
自分用のクリスマス・プレゼントということにすればちょうどいい。

 

 

 

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まき☆さんのイラスト まき☆さんのTシャツ

2018-08-28 01:31:00 | 鮭一の徒然

 

帰宅したら届いていた。
まきさんのイラストをプリントしたTシャツ。
絵心はない上にわからない僕だけど、某SNSで見掛けたイラストに一目惚れしてしまった。
どんなお方なのか、僕は何も知りません。
でも、まきさんのイラストには凄くひかれます。


モッドなTシャツと、"Hello~いとこの来る日曜日" を思わせてくれるネオアコなTシャツ。
もうすぐ夏も終わるけど、いつ着ようかな。




先ずはモッズ風のTシャツの方から。

60年代モッズは勿論、より細くてシャープなスーツのシルエットに70年代のネオモッズも感じました。
そしてまたヴェスパが出てくるモッズ動画と言うと、この曲を思い出します。
ということで、Secret Affair の"Time for Action"

 

 


こうして当時の動画を観ると、Secret Affairは確かに他のネオ・モッズバンドより実力はあるし、イアンもデイヴィッドもカッコいいのだけど、
どうしてもマリオットやウェラーほど突き抜けてはいないなあと感じてします。
振りがいまいちモッズ的でない(笑)

てことで、Small Faces も埋め込んでおこう。

 

 

では次にネオアコ風のTシャツ。

「Helllo ~ いとこの来る日曜日」のイメージそのままで凄く気に入ったイラストでした。
購入サイトではトートバックにプリントされた画像が紹介されていたので、Tシャツはないのかと残念に思っていましたが、
プリントする対象は幾つか選べると分かり、Tシャツ購入に至ったというわけです。
因みに「Helllo ~ いとこの来る日曜日」に関しては、小説で言うならカポーティの「遠い声 遠い部屋」を思い出します。





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まき☆さんのツイッターアカウント https://twitter.com/suga50501122

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LE b. ~(ル・べー)

2018-06-08 07:28:49 | 鮭一の徒然

夏が来る前に、物語をひとつ。



四十歳を過ぎての片想いなどこの上なく情けないものだと思い、早く通り過ぎてくれと僕は切に願っていた。
堪え切れなくなって走り出してしまわないか、迂闊な言葉を口走ったりしないか、僕は自分の言動や心理状態に怖れ戦きながらどうにか制していた。
もしかしたらもう心が惑うこともなくなるかもしれないという期待から、ときには別の人と交際もしてみた。
でも当然のことながらうまくいかない。
ありがちなことだ。
そもそもそんなことはもっと若いうちに知っておくべきことだし、事実自分自身も既に経験していた。
徒に誰かを傷付けることになるだけなのだから、そんなことはするべきではなかったのだ。


色々と手を尽くしたけれども淡い期待は儚く消えた。
これは通り過ぎてはくれなかった。
それどころか今もここに居座り続けている。
「まずいな」という最初の予感通り、完全にこじらせた見込みのない片想いとなってしまった。
もう何をしても無駄だろう。
無理に諦めよう、忘れよう、押さえ込もうとしても余計に思い悩んでしまうだけだということは経験済みだ。
逆にそんな理由で塞ぐ中年の方がよっぽどみっともない。
仕方ない。これは見込みのない片想いなのだ。本人には迷惑をかけないように、僕自身が納得いくまで好きでいさせてもらうことにした。
少し気取ってこんなことを言うとまるで達観者の述懐のようだが、現実には寂しかったり、切なかったり、辛く感じることはたくさんある。
それでも僕は浮き足立つことはなかった。
「僕はあなたのことが好きだ。でもそれはあなたとは関係のないことだ。」
究極はこの信条だと思って、ずっと想いを寄せていた。
でもやはり黙っているだけでは苦しい。想いは伝えたい。知っていてほしい。

あるとき僕は彼女に僕の気持ちを伝えた。シチュエイションとして相応しかったかどうかと問われたら自信がない。
ただ、当時の我々の関係性や日々の接点を思うと、この機会を逃したらもう次は無いように思えた。

しかし伝えた後でも何も状況は変わらない。それは伝える前からわかっていたことだ。
だからその時点で僕は潔く諦めるべきであったし、これ以上何かを口走ったり行動を起こすことは彼女にとって迷惑以外の何物でもないのだ。
そしてそこまで分かっていても、僕は彼女のことを好きな気持ちを終わらせることができないのだ。



そのようにして過ぎた月日は3年近くになる。
しかしいい加減そろそろ終わらせなければと思い、少しずつ思いを寄せないような訓練をしようと決めたのが10日ほど前のことだった。

そんな折に、神の悪戯か天からの贈り物か僕には判断つかないのだが、ひょんなことから昨夜、想いを寄せる相手と勤務後に語らう時間を与えられた。
短い時間ではあったが、要するにデートすることが叶ったのだ。

3時間近く、僕らはテーブルを挟んでコーヒーを飲みながら語り合った。
彼女は終始笑顔でとても楽しそうだった。
二人で会ってくれるときの彼女は決まっていつも楽しそうだ。
勿論僕も楽しい。
こんなに楽しく過ごせるのに、何故僕ではだめなのかな。
片想いしたときに感じる、十代の頃からの永遠の命題を僕はまた繰り返す。

でもやはり最後には再び思う。
彼女には僕には見せない姿があるのだ。
それが当たり前だ。
そしてそんな彼女を受け止める恋人がいるのだ。
そして更に、何よりも大切な彼女の宝物、自身の子がいる。
子を持つ親なのだから、楽しいことばかりではなかろう。
僕には思い及ばない苦労や辛さがあるはずなのだ。
そんな多用で心労の多い毎日の中で、ほんのひとときではあるけれども、あなたは僕に、あなたと語らう時間を与えてくれた。
そして楽しそうに笑ってくれる。
ありがとう。
あなたに、心からの感謝の気持ちを伝えたい。
そして安堵の気持ちを感じてくれたら嬉しい。
束の間、何もかも忘れて楽しく話してくれたらいい。
多分僕らには「我々は同級生だよ」という、たいした根拠はないけれども安心できる共通認識がある。
安心できるから、楽しいんだよ。




彼女が発した何気ないひとことを僕は覚えていた。
「えっ? プレゼントしてくれるなら貰うよ」。
軽口めいてはいたものの、 そう話していたときの彼女の眼は輝いていて、その表情は陽が射しているように眩しかった。
贈り物としての性格や彼女の年齢を思うと、僕は本当にそれを贈ってよいのかさんざん悩んだ。
でも僕は昨夜彼女に贈った。


「もう忘れちゃったと思うんだけど、プレゼントしてくれるなら貰うよって、凄く嬉しそうに言ってたんだよ。」
どんな間を取ったらよいのか見当が付かず、手探りするように少しぎこちなく言いながら、僕は手提げの紙袋を渡した。
少し前に手に入れて、自分で包装して保管してあった、デッド・ストックのル・べーが入っている。

「えっ、なんだろう・・・。 わっ、香水だぁ。」
「もし気に入らなかったら飾っておいてよ。」
「飾っておいても可愛いね。」

本当に嬉しかったら、きっともっと感嘆の声をあげただろう。
やはりこの手の贈り物は困るのだろう。
少し戸惑いながら、それでも喜んでいる様を見せようと彼女は頑張ってくれた。
そして彼女はル・べーを受け取ってくれた。
僕の気持ちを汲んでくれたのだろう。
受け取ってもらえたからといって、僕は期待も勘違いもしない。
僕は僕の立場を分別と思慮をもって認識し、そしてそれをわきまえている。
そんな関係性での贈り物だった。


彼女は記憶を辿っている様子だった。いつ香水の話をしたのか思い出そうとしていた。

「あれっ?もしかしてル・べー着けてるの?」
「え?なあに、それ?」
「香水だよ」
「何も着けてないよ。ハンド・クリームじゃないかな」
「そっか、ル・べーの香りによく似ていたからさ」
「プレゼントしてくれるなら貰うよ。」



実際のル・ベーとハンド・クリームの香りは全然似ていないかもしれない。若き日の僕の憧憬が記憶の中のル・べーを美化したのかもしれない。好きな女が放つ香りは全てル・べーだと思えてしまうのかもしれない。
まだ僕が若く自信に満ちていた頃、深く愛した女が僕と会うときにだけ着けていた香水がル・べーだったことを、僕は何年振りかに思い出した。

 

 

 



閉店間際のカフェの店先で、ル・べーを鞄に仕舞い込んだ彼女と手を振りあって別れた。
恋人に会うときにあの香水を着けていられるのは複雑な気分だなと思ったが、別の男からの贈り物の香水を着けて恋人に会うなんてことは多分ないだろう。

では、この先ル・べーの出番はあるのかな。
またいつか、ル・べーの香りをまとった、僕にとっては世界中で誰よりも可愛い彼女に会えるときはあるのかな。
もう想いを寄せないようにしようなんて、端っからできないことを思うものではないな。
きっと正直な僕の本心は、まだ彼女の止まり木で居たいのだろうな。
情けない。



それでも僕はあなたのことが好きだ。
ただし、それはあなたとは関係のないことだ。

 

 

 

   ~I am still fond of her

 

 

 

 

 

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The Versatile I Was

2018-06-02 01:45:03 | 鮭一の徒然

僕はそのとき、当たり前のように仕事を進めていく上で浮かび上がった質問をしようと近付いて行った。
軽口であしらわれるなんて思ってなかった。



理解が足りなかったり、認識がずれていたりして、的外れな疑問や質問を繰り返し投げかけられては誰しも嫌気が差してくるだろう。
やむを得ない。
僕に非がある。


ただ僕は僕なりに一生懸命考えて質問をしたつもりだった。
率直な疑問だった。
業務フロー、手続き処理のフローについて真面目に疑問・質問を投げかけた。

「何言ってるの? 何のためにそうしたいの? いっつもわけの分かんないこと言ってさ。 うんうん、わかった、もうあっち行っといて。」

戯言をあしらう何気ない返しのつもりだったのだろう。
後からよく考えたら、確かに僕の質問は的外れだった。
あんな風にあしらわれても仕方ない。
それにそのあしらい方にしても、もし僕がまともだったら、何ら気に留めたり気に病んだりする必要のないような作法だ。
相手には一切非がないのだ。

 


わかっている。
自分でも充分にわかっている。
以前と同じようには、うつ病の発症前と同じようには働けないということはよく分かっている。
通院も服薬もしなくなってもう4年以上になるのに、まるっきり普通に日常生活を送っていられるのに、何故か、嘗てと同じようには働けないのだ。



理解できないことが増えたし、忘れっぽくなったし、以前だったら当然気付いたことを気付かなくなっていたり、機転を利かせた立ち回りができなっているんだよ。

理由はわからないけど、うつ病を発症したことと関係があるのかどうかさえそもそもわからないけど、嘗てと同じようには働けないだのということはすごくよく分かるよ。



苛立たせて申し訳ないという気持ちと、分かっていながらできない自分の不甲斐なさに対する怒りと幻滅と無力感。
相手を責めるのは筋違いだし、責めるような言い方はしたくないのだが、信頼していた人から返された軽口が意外に重くて、久し振りに落ちたこの気持ち。
それらが複雑に混じり合って、結構ヘビィに落とされたなあ。


これが何日も続くとよくないんだ。
明日は、どうか気持ちを上向かせるような魚に出会えますように。


The Versatile I Was
万能感に満ちて得意になっていたあの頃の自分には想像できない現実です。

 

 

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彼方と此方 ~僕が溺愛したこまるという名の猫

2018-02-05 00:25:13 | 鮭一の徒然





当初この週末は自動車の整備をして過ごすつもりでいた。
愛車レガシィB4のフォグランプが点灯しなくなったのだが、10年以上前にDIYで純正ハロゲンをHIDに換装していた。
不点灯を確認した際の点検で、HIDバーナーが割れていたのを発見。
もうこの際純正ハロゲンに戻そうと思ったが、純正の配線を思い出せない。
仕方なくもう一度新品のバーナーを購入して取り付けることにした。


しかしこの取り付けも面倒な作業だった。
もともとポン付けができないのを加工して何とか装着したので、もう一度同じ作業をするのは避けたかった。
出来るだけ既存の加工済みパーツを使う方法で段取りを考え、土曜日の日中の作業は予定通り終了した。
翌日の天候はかなり寒いという予報だったため、屋内での作業でも差し支えないものは今のうちにやっておこうと思い、僕は深夜までハンドツールを使いながら部屋で作業をしていた。

作業そのものはさほど難しいものではない。
電気の配線、一旦分解したパーツの接着、付着した粘着テープの残りかすをスクレイパーやカッターナイフで削るという作業だった。
そのカッターナイフを用いた作業の時に僕はやってしまった。
勢い余って刃が左手人差し指の先端の腹にズブッと刺さってしまった。

痛みはなかった。
しかし、出血が酷かった。
どうにか消毒して止血したが、翌日の作業は断念した。
人差し指が使えない状態での作業はあまりやりたくない。



さて、日曜日をどう過ごそうかと考えたときに、ここのところずっと気になっていたことを完遂しようと思った。
父方の祖父母の墓参だった。


僕は今でこそ大きな面をして「岐阜県民です」と書いているが、実は14歳までは名古屋で生まれて育った。
祖父母の墓も名古屋市内にある。
千種区の平和霊園だ。

※写ってはいけないものが写り込むと困るので、霊園周辺ではこの写真しかありません。




僕は名古屋で生まれ、14歳の7月末に多治見に転居した。
その後5年8カ月を多治見で過ごし、二十歳になる年の4月に進学のために上京した。
東京で8年4カ月過ごし、28歳の7月にまた多治見に戻ってきた。
その時点では多治見で過ごした期間が一番短い。
故郷という感覚はなかった。
寧ろ故郷は名古屋だくらいに思っていた。


多治見に住む期間が長くなり、岐阜県内の川に釣りに行くようになった今では当然故郷は多治見で自分は岐阜県民だと思っている。
逆に第二の故郷のような感じになった名古屋の守山区。
その守山区の嘗て住んでいた地域を通りそして矢田川を渡る。
千種区に入り平和霊園を目指す。
幼い頃の記憶を大人になってから辿ったときの常だが、距離感や道幅などが当時の感覚と比較してとても小さく映る。
あの頃は毎日遠い距離を一生懸命歩いた記憶しかない小学校までの道のりはあっという間で、区を越えるにもかかわらずそこから霊園までも大した距離ではない。
自転車に乗って平和霊園内の猫ヶ洞池までよく釣りに行ったのだが、随分遠かった記憶がある。
それが自動車で往くと何の造作もない距離だった。


時期的に墓参の人は殆ど見かけなかった。
僕は墓の前でひとしきり祖父母に話しかけながら、線香とろうそくの火が消えるまでの時間を過ごした。
帰路のんびり寄り道をしながらクルマを走らせた。



毎日くぐった母校の正門前を訪れたのは何年振りだろうか。
恐らく30年ぶりくらいだろう。
28歳の時に多治見に返ってきて自動車免許を取得して直ぐに、僕はこの守山区の小幡、喜多山周辺までドライブに来たが小学校の前には来なかったのだから。
当時は小学校の周辺は田んぼばかりだったが、驚くことに今でも残っていた。

※休耕田になっているのか、時期的に何も耕作していないのか。
 今でも名古屋市内にこんな土地があるのか。




苗代、菱池、隅除、山脇、大谷・・・そんな字名は今ではもう「・・丁目」に取って代わられただろうが、僕はそのまま嘗て住んでいたマンションの隣を通り、通った中学校の正門前を過ぎ、中学生の時に大好きだった真琴ちゃんが住んでいた家の近くを過ぎた。
その辺りはもう小学校に上がる前まで僕が住んでいた地域だった。
当時の県営住宅はもうない。
喜多山駅の方に向かって行くが、ナルボンヌという手作りパン屋も喫茶店リッチもないし、薬局もない。
幼い僕に母がカブトムシを買ってくれた名鉄ショッピもない。
店頭に並んだ売り物の魚を興味津々で眺めていた魚屋のあった喜多山市場もない。
喜多山駅そのものも綺麗に改装されている。

そしてそのまま、僕はよく釣りに行った二ツ池に向かおうとするが、新しい綺麗な立派な道路ができていて経路が分からない。
方角は分かる。
でもどうやっていけばよいのだろう。
そりゃあ30年も経てば変わるよなあ・・・



帰宅して、父に墓参りに行って来たと報告した。
父にとっては自分の両親なのに、墓参りを自主的に行くなんて未だ嘗てあったろうかというくらいに無関心だ。
「わざわざ墓参り行かんでも、家の仏壇で拝んどけばええがや」。
父は名古屋で育って名古屋に勤め、多治見の人とは殆どかかわりが無いので今でも生粋の名古屋弁を話す。

「家の仏壇では意味が無いらしいよ。お墓までお参りに行かなきゃ先祖を敬うことにはならんらしいよ」と僕は答えたが、確かに自分は仏壇に手を合わすことは殆ど無いなと思い当たった。
折角だから、これを機会に仏壇の前で拝む習慣をつけようか。
そう思って仏壇の前に正座した。

右手に父方の祖父母、左手に母方の祖父母の仏壇がある。
手を合せて拝んだ後、僕はその二つの仏壇に挟まれた小さな箱に手を伸ばした。
まだ若い頃に保護した迷い猫「こまる」、愛称「こまちゃん」の骨壷だった。








僕がまだ東京でギターを掻き鳴らしていた頃に、母親の職場周辺で迷子になっていた猫だった。
当時はそのような迷い猫を保護してばかりでどんどん飼い猫が増えていた。
「これ以上増えると困るなあ」という妹のひとことから付けられたのが「こまる」とい名前だった。




成猫になってから保護されたためなかなか馴染まなかったらしい。
僕が多治見に返ってきたときもまだ少しよそよそしかったが、毎日毎日しつこく「こまちゃん、こまちゃん」と呼びかけているうちに、少しずつ心を開いてくれた。
そしていつしか我が家で一番愛想のいい猫になった。
名前を呼ぶと必ず返事をしてくれた。
「にゃん!」、「にゃあ」、「にゃ~お」、「ぐるるるるぅ~」、そして時には口ぱく。
とにかく色んな鳴き方をする猫だった。
その時の気分を如実に表していたのだろう。
機嫌の良いときは、僕が口ずさんだ鼻歌の合の手のように「にゃん!」と鳴いてくれた。
体毛もふわふわで柔らかくて手触りがよく、グレーの色合いも素敵だった。
とにかく可愛い猫だった。










2009年頃だったと思う。
こまちゃんを抱いたときに左右どちらかもう忘れてしまったのだが、腋の辺りにしこりがあることに気付いた。
その時点で既に我が家にやってきて14年ほど経過していた。
老体に全身麻酔は負担になるだろう。
この年齢なら進行も遅いだろうし、このまま天寿を全うしてもらうことにしようと家族で話し合った。


2011年の正月、帯広から帰省した妹が提案してくれた。
よかったら、こまちゃんを連れて帰って、ウチで手術と治療するよ。

妹の旦那は開業獣医だ。
そちらで手当てしてもらえるならこんな良いことはない。
かくして、こまちゃんは空の旅で帯広に向かうことになった。
「こまちゃん、元気でね」。
凄く寂しかったけど、出来るだけさらりとお別れの挨拶をした。
大袈裟にするとそれが今生の別れになってしまいそうな気がした。


帯広の妹から連絡があった。
「こまちゃんね、もうあちこちに転移して、手の施しようが無かったよ。だから何もせずにそのまま縫って今は酸素室に居るよ」。




そうか、もう駄目だったか。
少しは期待していたのにな。
もう会えないな。

当時の僕は仕事でもそれ以外でもどん底に向かって落ちていく真っ最中だった。
とても帯広まで行く余裕はなかった。
妹から送られてくる写真を見て心が震える思いをしただけだった。



2011年の5月に、妹が帰省してきた。
家に入ってくると、紙袋を差し出していった。
「はい、こまちゃんここにいるよ」。

大切なものなのだろう。
丁寧に扱っているなと思った紙袋はこまちゃんの骨壷だった。


僕が溺愛していたのを知っていた妹が、気の毒がって手厚く葬ってくれたのだ。
とても感謝した。
もう会えないと思っていたけどまた会えた。
もう鳴いてはくれないけど、会えないと思っていたのだから、会えただけでも嬉しい。






祖父母の墓参りから帰宅し、父のひとことで仏壇に向かって手を合わせた僕は、こまちゃんに申し訳なく思った。
こまちゃんはここに居たのに、声をかけてなかったね。
ごめんね。

父と母、双方の祖父母の仏壇に向かって合掌した僕は、二つの仏壇の間に安置された骨壷に手を伸ばした。
こまちゃんが居るその骨壷を僕は腕の中に抱いて、暫くこまちゃんの思い出に浸っていた。




※ビートニクのように推敲せずに書きました。時間が足りなかったので。
 誤字脱字乱文は追って修正します。