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日記

日々のあれこれ

大河ドラマ「光る君へ」におけるダイコン、カブ問題

2024年03月25日 | 断想

こんなに一生懸命見るのは、1960年代、尾上菊之助と藤純子の「源義経」以来かも。

結局、私は十二単が好きらしい。あの布の塊が。一セット誂えて、毎日着たいけど、あれは労働には不向き。朝起きて、ゴミ出しの段階でまず挫折。ばあちゃん、裾踏んで転ぶ。

昨夜の12回は泣けましたね。ドラマ見て泣くことはまずない私ですが、ほだされて涙が出た。

好きな人と一緒になれない、その人は自分が知っている身分の高い姫君を正妻にすると、本人の口から告げられる。

別れたその足で男性は姫君のところへ行き、深い仲になる。

姫君に寄りかかられ、観念して運命を受け入れる覚悟の男性の顔の演技。涙顔で家路につく別れたばかりの女性。

この時の藤原道長は三男でまだ高い位にもついていない。姫君の父親はいずれ帝の妃にもと思って育てていたのに、花山天皇は出家してしまうし、次の二条天皇は幼いし、それでも格下の道長を婿に取るのは気が進まなかったと、ネットの何かの解説にあった。

私達は後の道長の栄耀栄華を知っているので、なんで渋るのかと思うけど、その時にはまだ未知数。

いい世の中を作るために政略結婚して位を上げていく・・・という道長の弁明、ちょっと苦しい。戦国ものの大河ドラマで「平和な世を作るために今戦う」と同じような後付けの理由。

それもこれも今の時代に合ったドラマにするための苦心かなと思いました。

人を好きになるのは最低限、自我を持つことが必要。古代人の自我がどこまであったのかなあと。

人は自分の見ているものがずっと昔からあったと錯覚しがちだけど、自由に恋愛するのはたぶんうんと新しいことと思う。今の時代に分かりやすく話を作ると、歴史と矛盾するし難しいところです。この後どうなるんでしょうか。


で、表題のダイコン、カブ問題ですが、手元にある「栽培植物の起源と伝搬」という本によると、ダイコンは東ヨーロッパから中央アジアが原産、農耕文化の初期に華南から来たと考えられ、日本に来てから品種改良が進んだそうです。

カブは南ヨーロッパ原産、ダイコンより古い8世紀以前には日本に来たと考えられるとか。

後の紫式部=まひろが自宅庭でダイコンやカブを栽培し、物陰からそれを見る道長という場面もありますが、あのダイコンやカブは明らかに今の時代のもの。大きくて立派。平安時代の野菜を今調達するのは無理なのでしたかないのですが、畑の野菜の葉がすでにしなびているのは如何なものかと。。。。

たぶんあれはNHKの人が店から調達。抜いて日数が経っている。我が家のダイコンですが、抜いてすぐだとこうです。葉は寝ていない。

すみません、細かなことで。本筋とは関係ないけどちょっと気になったので。


その他に、今日はクロネコに来てもらって荷物を発送した。180サイズで東京まで4,000円弱。

昨日は上下に棒を通す折り返しを付け、何度も壁に掛けて調節。夜になってから段ボール箱を作る。朝。近所のホームセンターが開くのを待って荷造り用の強力幅広テープを買って来て荷造り。

やれやれ。

夕方は家の中の整理整頓。ひな人形も片付ける。

明日は搬出入を委託する業者さんに代金と書類いろいろ送って今回のことは終了。落選したらすぐ送り返してくる。

今年は自信がない。みんなに出すって言っているので落ちたら恥ずかしいことですが、それもまた人生の一里塚。失敗の中にこそ教訓がたくさん詰まっている。そう思うことにしましょう。この年なので、恥ずかしいことはもうあまりない筈です。

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最期の日のソフトランディングに向けて

2024年01月28日 | 断想

昨日テレビを見ていて「妻の願った最後の七日間」という曲があるのを知った。

クミコ / 妻が願った最期の「七日間」 (youtube.com)

朝日新聞の投書記事が元になって出来たものだそうで。当時はずいぶん話題になったらしいけど、知らなかった。そうそう、私は夫の介護のサポートで、何かと忙しかった2018年だった。

妻が願った最期の「七日間」 投書にこめられた夫婦の物語 (withnews.jp)

歌詞が余りに身近で身につまされた。

私が同じ立場になったらたぶん似たようなこと考えると思う。

料理を作るのはあまり得意でないし、冷凍したもの残されても夫は食べないかもしれないけど、ため込んだ古布に紅絹は捨てきれずにたくさん持っている。片付けないといけない、そう思いながら今は一日伸ばし。

織りかけのマフラーってどんな感じ?

編みかけでなくて織りかけって・・・平織りはマフラーに向かないので綾織り?なら卓上機は難しいので高機でしょうか。と、つまらないことに引っかかる私でした。

大塚博堂ですか~いい歌を書かれる人でしたが、早世しましたよね。生きていればもっともっとたくさん歌を残したことでしょう。残念です。

この歌詞は、私たち世代の女性の幸せがどこにあるか教えてくれるものではないかと思う。

料理して家族と過ごして友達と過ごして、好きな手芸をして、夫と昔行った場所へ新たな気持ちでドライブをする。

すべて何でもないことだけど、人生の日々は無限にあるわけではなく、それを知っていながら普段は無為に過ごしてり、感謝の心を忘れている私。

もうあとがないと分かれば、おのずと感謝の心が生まれてくるでしょうか。そうありたいものです。

今日夫と話したこと。仕事やめたら実家の荷物片づけて建物のことも含めて、私と子供たちに迷惑かけない形にしてほしいと頼んだ。

市の大型ごみ処理センターへもっと早くから持っていくべきでしたね。私も三度くらい自分で運転して行ったけど、今はもう億劫。

歌をきっかけに自分の人生の終え方を考えた。胸につまされました。一日一日大切にしなければ。

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年末いろいろ

2023年12月23日 | 断想

今年も残り少なくなりました。年末の諸行事、すっ飛ばしたら例年より早く暮れが来そうですが、残りのいろいろも、身をすくめてなるだけやり過ごす予定。

年末になると掃除用品のCMが増えますが、いちいち付き合って掃除しない。窓から身を乗り出して落下したら危険。

若いころ勤めていた学校で、私が就職する何年か前、男性教諭が窓ガラスの清掃中に落下して何日か後に亡くなられたとかで、その学校では窓ガラスの外側は拭かない決まりになっていました。

ね、汚れと命、引き換えにはできませんよね。年取ると無理しないことに徹しましょう。わが子供たちが来て掃除してくれるのは止めませんが、来るわけないもんね。あの人たち。

家族のライングループでは、未だに昔のぬいぐるみの話で盛り上がっている。全員40代のおっさんが涙。親が年取ってること、分からないみたい。


さて年末調整です。給与はエクセルで夫が管理、最後の年末調整は未だ私の手計算です。最近は紙の資料や用紙をほとんどくれないので、足りないのは自分で近くの税務署へ貰いに行きます。

何百人、何千人もいる大企業でないのでもう終わりました。今年は曜日の配列が余裕ありました。よかった。平成という年号の時は天皇誕生日、土曜日、日曜日と続くと、21日の夜には計算が終わってないといけない年もありました。

やれやれ、あとは源泉税の納付、税務署と自治体への提出書類いろいろ、それから確定申告の準備。あと何年するんでしょうか。もうやめてのんびりしたいものです。


先日、夫の作ったおかず。

浮いているのは肉の脂。

大根の皮を丁寧に包丁で剥いていた。

最近は家事も出来ることはなるだけやってもらっています。

私がいなくなっても困らないよう、一通りのことは出来るようになっておかないと。

昨日、袋町の頼山陽記念館の前を通ったら無料だったので見学してきました。庭の柚子を無料でいただきました。

小さな実ですが、たまたま冬至だったのでユズ湯に。網の袋に入れ、しっかり揉んだら新鮮な柚子のいい匂いがしました。

冬には冬の楽しみ。寒いけどめげずに頑張りましょう。

 

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昔の連絡の取り方いろいろ

2023年12月16日 | 断想

可愛いツリー/ゆめタウンで 12/15


先日来、昔の友達とのあれこれを思い出していますが、今になって不思議なのはスマホのない時代、どうやって連絡とってたんだろう~??ということ。

もちろん当人だから憶えているはずですが、今のやり方に慣れてしまった今、よくもまあ遠い所の人と待ち合わせの約束していたものと、感慨深いものがあります。

家に固定電話がついたのは高2くらいだったかな。その頃は電話引くには電電公社の債権も買わなければならず、8万円くらいと高額でした。今なら数十万円の感覚でしょうか。

商売しているならともかく、普通の家は電話のない家が殆ど。近所の電話のある家に呼び出しをお願いしていました。

それまでは有線電話。農村によくあった、交換手が繋いでくれる簡易型の電話でした。基地局が電電公社の電話と接続できるので、部活で遅くなる時はそこから家に電話を繋いでもらっていました。それも不便で、我が家に電話が導入されたのは時代の趨勢もあったことでしょう。

家に一台しか電話がないので、誰にどこから連絡あったか、家族の間で丸わかり。我が親は誰から電話がかかって来てもほぼ黙って取り継いでくれたので、その時代はそんなものかなと思います。

母は私の友達、電話かけてくる男の子も女の子もみんな名前を知っていた。晩年まで、私の昔の友達のこと、憶えていて話題にすることも。中にはもうあちらへ行った人もいるのが悲しくも残念です。

で、こんな風にして待ち合わせの約束しても途中でアクシデントが起きたときには直接連絡のしようがない。

30分くらい待って来なかったら、家に電話して「++君から何か言ってこなかった?」と親に聞く。「うん、ちょっと遅れるって」と分かればさらに待つ。

「知らんよ」と言われたらさらに待つ。いずれにせよ待つ。待つ時間が思いの深さ。

このやり方で最長2時間待たされたことがある。ったく。今の同居人ですがな。その頃は一人暮らしなので実家は関係ないし、相手の家は自営業なのに一回線しか電話がないので遠慮して掛けられず、やっと来た相手に別れ話のはずが、またされ過ぎて、それを言い出す気力もなくなった…んだったかな。やれやれ。

その他に伝言板と言うのがありましたね。今の若い人、さすがにそれは知らないでしょう。

大きな国鉄や私鉄の駅には待合室などに黒板があり、日付と要件を書き込む。24時間くらいで駅員さんが消すのかな。

「**さん、1時間待ったけど先に行きます 12/16 ××子」とかこんな感じ。

野口五郎さんの私鉄沿線という歌の中に「伝言板に君のこと僕は書いて帰ります。想い出たずねもしかして君がこの街へ来るようで」というのがありますが、あの伝言板です。いつ頃まであったのでしょうか。

あとは手紙にはがき、それが多かったかな。

しかしどんなに制約があろうと、会いたいという気持ちのある限り、人はどんな手段を取ってでも連絡とるのでありました。

京都駅の大空間。外気とつながっているけれど、大屋根で直射日光や雨が避けられるのが工夫かと思います。

複雑でまだ全部は制覇していない。確か劇場もあったはず。

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あまりに面白い子だったので・・・

2023年12月12日 | 断想

今年も京都駅、光の階段。12/10、17時頃。


一昨日は渋い年配男性になって再会した男子同級生、高校卒業して二、三年間は、みんなで会っても私と二人で会っても、いつも面白い話で笑わせてくれた。本人はいたって真面目な顔なので、その落差がおかしく、そんなに面白い子なのに勉強はとてもよくできて、本当に不思議な人でした。

最初の記憶は7月ころの、とっても匂う人。

とは言え、60年近く前のことなので、私が面白おかしく記憶を脚色しているかもしれません。できればモデルになってもらった人を離れ、フィクションとして読んでいただければ幸いです。1960年代の、日本も若く、私たちも若かった時代の記録として。


夏休み前、汗で汚れた体操服に黒いカビが生えて、それを着て授業受けていた。夏なのでとても匂った。みんなに注意されても本人平然と。ねっ、おかしいでしょ。全然かまわない人でした。

秋か冬、化学の実験で作ったアンモニア。彼の班だけ大量に作り、シャーレに入れて、女の子のところへ嗅がせに来る。きゃあと身をよじる私たち。何でも楽しい遊びにする人でした。

年末の教室の大掃除、床をワックスがけするはずが、水を2㎝くらいためて、なんでそんなことになるのか、今でもわけわかりません。下の階に水漏れしなかったのでしょうか。

ごめんね、**クン。今は社会的に地位もある人なのに、私はやんちゃなあなたにとても楽しませてもらいました。もしかしたら好きだったかもしれないけど、その頃あなたは別の女の子を追いかけていたので、あなたを見ているだけで楽しかったのです。

11月の修学旅行は広島、山口でした。本四架橋も高速道路もない時代、宇高連絡船で本土に渡り、そこから延々とバス。夕方広島通過、夜は宮島に泊まりました。


広島の市街地に入る直前、マツダの本社横を通りました。それまで私はマツダが広島にあるって知らなかったのです。父はキャロルのオーナーでしたが。2ドアの軽自動車、エアコンなし。

**クンはなぜかおもちゃのピストルを旅行に持参。バスの中でそれを持って遊んでいた。

なんで???女の子なら、お人形持ってくるようなもの。そんな人、いる?

マツダの横を通ると、「社長はファミリアに乗ってるんかあ」と言ってたけど、まさか。もしかしたらそうかもしれないけど。


高2のクラスのお別れ会は某有名公園で。春になって、芝生の上で遊ぶ私たち。

みんなで手を繋いで「はないちもんめ」をしていたら、男子数人からこんなことして何か意味があるんかあと、至極当然な疑問。子供でもなく、さりとて大人になり切れない年ごろ。私達女子は、男の子が面白いこと言うたびにけらけら笑うしかないし、それが娯楽と言えば娯楽。男の子は面白いこと言って女の子に笑ってもらうのが快感だったのでしょうか。

クラスで断トツ面白いのが**クンでした。追いかけている女の子は別の男の子と付き合い始めたので・・・その後、どうなったのかなあ。本人の口からは聞いてないので詳細は分からず。


卒業した春休み、先生の下宿へ行ったときに新しい住所を交換したんだと思う。スマホもないし、電話は下宿の呼び出し。それでハガキを時々交換していた。それぞれの学校での生活など、近況報告。

私は京都に叔母がいるので学生時代はよく遊びに行き、その時は呼び出して街を案内してもらった。付き合ってもないのに無神経な私。その頃、彼女がいたのかもしれないのに申し訳ないことした。

月に二回、お母様が洗濯のため上洛するとか、当時半期が6千円だった授業料をどうしても使ってしまうので、親御さんがが直接納めるようにしたとか、楽しい学校生活のいろいろを話してくれて、私も楽しかった。

一度広島へ来たんだったかな。その頃の私は油絵描いていて、絵を描いてほしいと頼まれた。F8くらいのキャンバスも買ってもらった。

数年前の同窓会で再会したとき、その絵をまだ持っているというのでびっくりした。

「どんな絵ですかあ・・・」と恐々聞いたら、山があって川があって風景画とのこと。私はすっかり忘れていた。どうせものすごく下手に決まっている。もう人さまのものになっているので、捨ててくださいとも言えず、恐縮しきりです。

**クンと出会わなかったら、私の人生、今より少し寂しいものだったと思う。本当にいい友達付き合いをさせてもらった。

一度、何かの用事でご自宅に電話した時に出られた奥様もとても感じのいい方で、幸せに暮らしているのだと嬉しかった。

もうこの年ですからね、あとは健康で楽しく人生を全うしいていただきたいもの。私もそうなれるよう頑張ります。

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京都で旧友に偶然再会、涙が出るほど感動した

2023年12月10日 | 断想

じゃ、気を付けてと別れた後で、ちょっと振り向く息子のお嫁ちゃん。

14時頃。京都三条通。


本日は、愛知県から来た息子夫婦と昼ごはんを一緒に食べ、そのあと今日が最終日の工芸展を見た。

会場へ行くと、私の作品を探している人がいる。キャプションの私の名前が間違っているので、分からなかったらしい。

「どなたからか紹介されたんですか」と聞くと、「私は**です」と言われるその人は、私が案内状を出した高校の男子同級生で京都府在住。

いゃあ、びっくりした。お互いおじいちゃんとおばあちゃんで再会して、分からなかったという悲しくもおかしい話。数年前の同窓会でも話したけど、彼は二次会から来ていて、ホテルの暗いバーラウンジだったので、顔はよく確認していなかった。

そこからは作品そっちのけで近況報告に高校時代の話。話したのは10分くらいだったけど、時間が一気に58年前にワープして、私も偉い先生相手なのに「**クン」とため口で話をさせてもらった。

修学旅行の栞を私の家に集まって作った話をすると、そんなこともあったなあと笑っている。そうなんです。学校でくれる栞とは別にクラスだけの栞を作った高2の秋。

長いバスの時間に、何をするかプログラムを考える。いろいろな人と隣り合わせになるよう毎日席替えする。巻末はみんなで歌う歌詞をいくつか。イラストは私担当。ガリ切りも私がやった。勉強は後回し。そんなことで費やしたわが高校時代。

修学旅行委員は各クラスに男女一人ずついたのに、私はなぜかその女子の委員を差し置いて企画を担当する流れになり、男子の委員と今日会った**クンの二人が、11月の日曜日の午後から我が家へ来て相談したのです。その女の子にしたら気分悪かったでしょう。ごめんなさい。

我が家の子供部屋は庭先の離れになっていて、庭を通って直接来れるので来やすかったのでしょう。

いろんなことをいっぱい思い出すのですが、高2の冬に差し掛かったころ、放課後、学校の食堂で友達とおしゃべりしていると、グランドの遠くを**クンが部活でランニングをしていた。

友達いわく、「スポーツも頑張ってすごい人。がり勉じゃないのによくできる」と称賛していた。

修学旅行のこの「栞トリオ」は進学先が決まった春休みに揃って担任だった先生の下宿に遊びに行き、スキ焼きして卒業のお祝いをすることに。まずは先生の下宿の近くのスーパーへ3人で行き買い物、それから洗面所で果物ナイフで材料を切り、電熱器にフライパンを掛けて作り始めたけど、全然火が通りません。ほとんど食べる間もなく、20時になったらもう帰りなさいと早々に追い出されました。

先生も迷惑だったと思うけど、私たちは、いえ私はままごとしているみたいでとっても楽しかった。

「先生の部屋、寝る場所を残して本がいっぱい積み上げてあった」と私が言うと、ほとんど憶えてないそうで。その後の人生が充実していたので、そんなことは忘れたのでしょうが、私は楽しかったことを節々で何度も思い出して元気づけられたから、誘ってくれことに今も感謝しています。

我が両親は、私が男の子とそんな付き合いしていても一切口出ししない人だったので、助かりました。

その後、京都へ行ったときには何度か京都を案内してもらった。大学の長い塀に沿った歩道を歩いたり、時計台の前でばったり同じ高校だった子と会ったり・・・とそんなことが断片的に思い出される。哲学の道を一緒に歩いたこともあった。

ああ、疾く過ぎしわが青春。ささやかな宝物のような想い出。とばあちゃんは感傷に浸る。

学会が広島であった時にはわざわざ郊外の我が家まで訪ねてきてくれて、そこらへんにゴロンと転がしていた長男にも会ってくれている。あちらにはお嬢ちゃんが生まれたとの話だった。

その後は年賀状だけのお付き合い、細々と切れることなく。でもそれもお互い止めてしまった。

工芸展は案内状をたくさん貰ったので、連絡していたのですが、まさか会場で会うは思ってなかったので、本当にびっくりした。

出入りの業者さんの手違いで、来るのが遅くなったとのこと。本当は10時に来るつもりだったとの話。それなら再会は出来てなかった。勘違いした業者さんに感謝。

長い人生を歩んだ後にはこんなこともあるのだと感動した。

頭がいいのに全然偉そうにせず、難しい大学の難しい学部にあっさり現役で合格して、私のようなものにも話を合わせてくれて、男女として付き合ったことはないけど、大切な旧友の一人。健康に気を付けて、これからも幸せな人生を歩んでほしいとしみじみと思った。

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祖母、思い出すことなど

2023年12月05日 | 断想

最近、ふとしたはずみで祖母のことを思い出すことが増えた。

母方の祖母は早くに亡くなっていたので、同居していた父方の祖母。

小一の冬休み、近所の文房具屋でゴムの中くらいのボールを買ってくれた。花柄がプリントされているもの。

クリスマスとお正月を兼ねたプレゼントだと言っていた。祖母が直接物を買ってくれることは稀だったので、嬉しかったはずだけど、私は昔から外で遊ぶのは苦手で、家の中で本読んだり絵描いたりしてじっとしている子だったので、他の子ほどは嬉しくなかったかもしれない。

多産の人だった。スペイン風邪で子供二人遺して亡くした後添えに28歳できて、50過ぎまで延々9人の子供を産んだ。2、3年に一度の割合。常に授乳しているか妊娠しているかの忙しい体。元々健康な人だったのでしょう。

今の時期に思い出すのは、着物着て家の前の畑で何かしている様子など。菊の花が霜に焼けて葉も花も赤味が増し、枝も不定形に伸びる。

高校の頃は家に来た友達にお土産に上げたりしていた。

子供が多いので孫も多い。16人。前妻の子の孫も入れると20人以上。何かの時は集まって賑やかだった。

不思議と母の年寄りになった姿はあまり思い出さない。それは私がもう一緒に暮らしていなかったからで、子供の頃の祖母の姿が最近はしきりと思い出される。いゃあ、心が弱っているのかも。いやはや。

家の中や外にいる姿とか。建物の陰の暗がりと一体化して、いつもどこかにいるような感覚。亡くなって40年以上経つ。立春の暖かい日が葬式だった。その頃から温暖化が少しずつ進んでいたのかもしれない。

家ももうないけど、質素で地味で、そんな暮らし方は私に受け継がれているのかもしれません。

本日、美容院へ行った後京都へ。お天気下り坂。

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